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ハッティ・キャロルの寂しい死


ちょうどこのころは、となり町に面白い喫茶店が何軒か出来はじめていた時期でいま思うとこうした店が現在残っていないのが残念だ。 
世界中を廻って骨董や絵画を買い付けていた人が始めた「メビウス童話館」。 
古い民家を改築して喫茶店を始めた東京の元サラリーマン。 
ちょうど東京からもそんなに遠くなく、河と山のあるとなり町はこのころから東京から移り住み、何かを始めるのにちょうど良かったのだろう。 
のちにNHKの「大黄河」(?)でブレークする宗二郎氏の師匠、火山氏もそんな一人だった。NHKを諸般の事情で退社後、となり町の山奥にオカリナの工房を開設。その地の粘土と珈琲の色素を使い、独特のオカリナを創り、オカリナのアンサンブルを模索していた。
成田がすったもんだの末に開港し、ボブ・ディランが来日した。 
バンドの方は低迷期に入っており、メンバーも減り始めていた。それぞれの音楽的嗜好もまた様々な方向に向かい始めていた。 
この年にYMOがデビューするも、クラフトワークにぞっこんだったナガシマにはなんだかパチもんのように聞こえた。戦略でもあったのだろうが、東洋風味が特にダメだったのだ。これだったら坂本龍一のデビュー、『千のナイフ』のほうがよほどよかった。 
そしてイーノによるオムニバス、『NO NEW YORK』がやってくる。ジェームス・チャンスの狂ったようなサックス、いまのアート・リンゼイからは想像もできないノイジーなギター、ティーンエイジ・ジーザスを率いるリディア・ランチの気怠さ。 
またジャケットのすばらしさに度肝を抜かれる。 
なんと今年の7月にはジェームス・チャンスが初来日をするらしい。おまけにサポートがZAZEN BOYSとPANICSMILE!これは行くしかないか。 
おなじく、イーノプロデュースでトーキング・ヘッズの『More Songs About Buildings and Food』がこの年には発売される。ポラロイド写真をつなぎ合わせてメンバーの全身像を創るというアートワークにまたまたノックアウト。 
ブラインアン・イーノが一番輝いていたころの話である。

高崎で行われていた全国公募の8ミリ映画上映会はいま思うとかなり大規模なイヴェントだった。うろ覚えなのだが何日かに渡って8ミリの作品が夜まで一日中上映されていた。無審査のため、作品は千差万別。なんと80過ぎのお爺さんの観光フィルムまで入っているという騒ぎ。 
北は北海道から南はどこまでだったろう。ともかく日本全国から作家が高崎に集結していた。特に北海道は作家が多く、その後、ゆうばり国際ファンタスティック映画祭に繋がる人脈も含まれていたように思う。 
また現在でも8mmを撮影し続けている、山崎幹夫氏や山田勇男氏も当時は北海道に住まわれていた。 
特に山田勇男氏の作品は稲垣足穂や鈴木翁二の作品世界に限りなく近い映像で魅了される。、実は山田氏、花文字(大正時の装飾的なレタリング)を書かせたら右に出る者はなく、数多くの作品が様々な媒体で使われている。たとえば林海像のデビュー作、『夢見るように眠りたい』タイトル、雑誌、『映画秘宝』のロゴも氏の作品である 
そうそう、この8mm公募展の名称は「8mm博覧会」だった。何回かポスターもお手伝いしていたな。 
話は戻って、例の『セレナアデ』をここに初めて出品。ナガシマの名前はいかがわしさとともにこの地方に知れ渡ってしまったのだ。
8mm博覧会の特徴はなんといっても事後報告書にあった。 
膨大な上映作品全てにスタッフ、および鑑賞した客から寄せられた感想が纏められたガリ版刷り(死語)の冊子が創られていたのだ。これは出品者にとって楽しみでもあり、また、戒めでもあった。 
ここに応募していて大きな作品を撮るようになった作家も少なくない。 
ナガシマは都合3回、この博覧会に作品を出品している。 
その後、この回は定期的に実験映画や個人映画を上映する会として形をかえ、のちに現在まで続いている高崎映画祭となっていく。 
そう考えてみると、ナガシマとこの周辺とのつき合いは25年近くになるのだった。 
高崎映画祭では去年、高崎市内に小さな映画館もつくった。そして、とうとう来年には高崎映画祭自体が20周年を迎える。 

付記:2005年に書かれた文章をブラッシュアップしたものなので年代、周年はそれに基づきます。写真は高崎映画祭主宰のモギさんこと茂木正男氏と長島

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