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悪気がないのは分かってる!でも、無理!限界!

職場で誰かの音が気になったことはないだろうか。

キーボードを叩く音、貧乏ゆすり、食べ物を噛む音。

気になる。でも言えない。

言ったら角が立つ。人間関係が壊れるかもしれない。

だから黙って我慢する。

そういう経験が、一度や二度はあるのではないだろうか。



以前、派遣で働いていた会社の役員の話だ。

いわゆる肝っ玉母さんタイプの女性。

悪い人じゃない。
むしろ、パワフルで明るくて、とても良い人だ。

何かあれば「私、やるよ!」と率先して動いてもくれた。

ただ、一つだけ困ったことがあった。

とにかく生活音が大きい。

仕事中ずっと独り言を言っている。
しかも結構大きい。
私に話しかけられていると勘違いして、応答したら独り言だった、というのも何度もあった。

飴が好きらしく、毎日何粒も食べていたが、そのたびにチュパチュパ、ときどきガリガリ。

もちろん本人に悪気はない。

悪気はないが、隣の席だとどうしても気になる。

思い返せば、今までの会社にも似た人はいた。

エンターキーが親の仇なのか、というくらいキータイプ音がうるさい人。

就業中に「キャハハハハハーッ」と甲高い声で笑う人。



■なぜ注意するのが難しいのか

こういうことは注意するのが難しい。だから余計に厄介だ。

「すいません、集中できないので、もう少し静かにしてもらえませんか?」

この一言を伝えるのでも、なかなか勇気がいる。

相手が怒るかもしれない。人間関係が悪くなるかもしれない。

だから多くの人は我慢する。

最近は「音ハラスメント」なんて言葉もあるけれど、じゃあ全部ハラスメントかと言われると、それも違う気がする。

難しい理由は、二つある。

一つ目は、自分が出している音は自分では気づきにくいことだ。

脳は、自分が出している音をある程度「当たり前」として処理してしまう。

だから本人は、自分が音を出していることに気づいていないことが多い。

そんな状況で「静かにしてくれませんか?」と言われても、本人には寝耳に水だ。

これは責める話ではない。

脳の仕組みとして、そうなっているだけだ。

二つ目は、フィードバックを受け取る側の問題だ。

仮に誰かが勇気を出して「貧乏ゆすりが気になります」と言ったとする。

本来これは「あなたが嫌い」とか「あなたが悪い」という話ではない。

「その行動が周囲にこう映っています」という情報だ。

でも人は、その「あなたの行動が気になります」を「あなたが悪い」と受け取ってしまう。

それは、自分の行動と自分を切り離せていないからだ。
本人の頭の中で、自分の行動=自分になっている。

だから、行動を直してほしいと言われたときに、「自分自身が否定された」になってしまう。

その結果「そんな言い方しなくてもいいじゃないか」と、趣旨とは違う解釈をされて終わってしまう。

注意する側も難しい。

相手を否定したいなんて、全然思っていない。
ただ貧乏ゆすりを控えてほしいとお願いしたいだけだ。

でも、どう伝えれば相手が人格否定と受け取らないかがわからない。

だから結局、言わない。

結果として、一番知るべき本人だけが知らないままになる。



■実際に私がやったこと

昔の会社で、事務員の高笑いがどうしても気になったときのことだ。

まず、ミュージシャンがスタジオで使うデシベルを下げる耳栓を使った。
完全に音が遮断されるわけではないが、高笑いで集中力が切れることはなくなった。

次に、スマートフォンに騒音計アプリを入れて、高笑いのときの音を測定した。

そのデシベル数を役員に持っていった。

結果は80㏈。だいたい地下鉄の車内くらいだ。

役員はそれを見て「うるさいと思ってたのは俺だけじゃなかったのか」と愕然としていた。

それ以来、役員が事務員の高笑いを注意してくれるようになった。

「気になる」という感覚を、数字という客観的な情報に変えたことで、動いてもらえた。

感情を数字に翻訳すると、人は動きやすくなるのだ。

感情ではなく、情報として伝えることが大事だ、と学んだ出来事だった。



■フィードバックを受け取れるかどうか

私は子どもの頃、母に食べる音をよく注意された。

「音を立てて食べない。」
「口を閉じて噛みなさい。」

当時はうるさいなと思っていた。

でも今思うと、「母ちゃん、ありがとう」と思う。

もちろん自分の生活音は自分では分からない。

だから今でも気をつけているつもりでも、実際どうかは分からない。

もし誰かに指摘されたら、十中八九、ムッとすると思う(笑)

でも大事なのはその先だ。

「はぁ!?むかつく!!」で終わったら意味がない。

むかつく、でも、その言葉の意味は何だ?と考えることが大事だ。

感情と情報を切り分けることが必要なのだ。



■「お互い様」は免罪符ではない

こういうことを言うと、次のように言う人が出てくる。

「お互い様なんだから、仲良くやろうよ。音くらい我慢してあげなよ」

実際、昔の会社で、役員に騒音計の数値を見せに行く前に、直属の部長に「事務員の笑い声がうるさいので何とかしてくれ」と言ったとき、似たようなことを言われた。

日本には「和をもって貴しとなす」という言葉がある。
だから「お互い様」という発想が出るのかもしれない。

しかし、和とは誰か一人が我慢することではない。

お互いが気持ちよく過ごせる状態をつくることだ。

そのためには、ときには言いにくいことを伝える必要もある。

そして言われた側も、それを人格否定ではなく、一つの情報として受け取る力が必要になる。



人は、自分の姿だけは自分で見られない。

だから鏡がある。

他者からのフィードバックも同じだ。

フィードバックを受け取ったときは痛い。

でも、その痛みが、見えてなかった自分を教えてくれる。

あなたが最後に受け取った"痛い一言"は、ただの悪口だっただろうか。

それとも、鏡だっただろうか。

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