論考「小説 安土城物語」のネタばらし(その17)
第八章
敷地づくり、準備工事。まずは天主だ。
天正元年(1573年)8月28日 虎御前山で「又右衛門、てっぺんに100尺の高さの殿主(シャトー)を建てよ。3年だ。オヤジが死んだ42歳には、信忠に家督をゆずり、アヅチ山に移る。」と言ったかどうか、それはわかりません。
近江支配の城とすれば急がないといけないですが、信長が各所で勝ち続けるうちに、殿主(館城)が未曽有の「天主」と変質していったという事も考えられます。企画というのはえてして長く不確かなものです。
しかし、どこかの時点で信長は「アヅチ山のてっぺんに」「100尺の高さの殿主を作れ」と必ず指示を出しています。敷地がわからないのでは大工は100尺の高さの殿主の基本設計にはいれません。指示を受けた大工のすることは、まずは敷地づくりです。
この年7月28日に信長が希望した「天正」に元号が変わりますが、天を正すのは容易でなく、この朝倉、浅井攻めの後、すぐに北伊勢に攻め込むも一向一揆にてこずり、鎮圧には天正2年9月までかかります。この頃までには、山の樹木を切り倒し、下草を刈り、敷地の目星をつけていたでしょう。山岡景隆、蒲生賢秀、木村高重のような、この地の国人も信長の配下に入り、近在の百姓の動員も出来るようになっていたと思います。
天正3年には、石垣の石を集め、材木の手配を始めないと「信長公記」に書かれている天正4年正月の着工に間に合いません。高重は天主の最後も見る事になりました。

信長はようやく天正元年11月4日に上洛し、12月2日に岐阜に戻っています。この前後でアヅチ山を船からジックリ眺める事ができました。テッペンの天守は決まっていますので、北、北西、北南、南、南東の5本の尾根をどう使うかですが、常楽寺湊から近い、北西の尾根、今の百々橋からの尾根筋がメインとするのはすぐに決まりました。
岐阜の金華山の登山道は何本もありますが、馬で登れる七曲がりが正統な道です。今の百々橋からの上りはすぐのところが急ですが、後に寺と神社が山道の上に建てたので山道が見えなくなったのであり、かっては、いったん北に折れ、現・会勝寺の境内から南に戻り、石部神社を通っての尾根に出たと思います。ここにクランクを一つ入れれば、馬でも登れる正統な道となります。
「伝大手道」が石段積みですので、そちらが正統な道と今は思われていますが、「信長公記」の記述は百々橋からしかありません。安土城下町も百々橋から繋がっています。


当時、安土山の南には内海がまわっていました。内海を埋め立てて造ったセミナリヨの史跡公園には、当時の湊が復元されています。現在「安土城お堀めぐり」という看板が建っていますが、これは掘った堀り割りでなく、埋め立てで残された水運の為の水路です。
今の安土山の周りはこのような埋め立てられた水田で囲われ、当時の内湖に屹立した安土山の形が見えず、さらに、「伝大手道」という呼称が安土城の姿を惑わせています。
小牧山の信長の城の「伝大手道」「小牧城下町」も史実ではありません。大手道とは、江戸時代の平城で使う言葉です。城下に街道が引き込まれて町人地が作られます、その街道に向かう門を大手門と呼び、大手門から街道までを大手道と呼びました。大手道の両側は武家地です。この意味で言うと、安土城では百々橋に至る尾根筋が大手道となります。
●伝・大手道は荷揚げの為の道であった。

中世になると、一遍上人絵伝にあるように、山の上に寺社を建てます。寺社の施工の為の道が参拝の道になっています。金比羅さんの石段がわかりやすい例ですが、あの石段は前後の駕籠かきが調整して駕籠を担ぎ上げていますが、大材、大石を人が担いだり、牛馬に2輪を引かせて登るのは無理な勾配です。引きずりあげたのでしょう。清水寺は古代から造営が始まっていますが、五条からの尾根筋の道があり、牛馬でもって資材搬入ができました。




百々橋からの尾根筋を使って資材を人手で担ぎ上げるより、船で伝大手門に資材を運び、谷間を削って作った頂上に近い直線ルートを、太綱を使って一気に持ち上げた方が大材、大石に効率的です。天正4年4月に石の担当奉行でなく、武将の織田信澄、羽柴秀吉、滝川一益、丹羽長秀が出てきて、人足1万人、三日三晩で石を引き上げたと「信長公記」にあります。一万人はともかく、大勢の人足が太綱を引っ張る場所は伝大手道しかありません。
砂利を斜面にまいて叩き、コロを敷いて、その上をソリに乗せた大石を何百人かで引いたのでした。
安土山の石垣の石は、一条谷、大和郡山城石垣の丸い河原の石と違い、尖った石が多いです。


「信長公記」には、観音寺山、長命寺山、長光寺山、伊庭山と石材の出所が書かれています。寺とつく山なので、人の入りやすい山だったのでしょう。
それにしても、事前に石切りをして安土山の麓に石を持ち込まないといけないので、4人の石奉行がそれぞれ分担して、1年前から集めていた事でしょう。六角氏の観音寺山城に残る石垣は山の上の方にしか残っていないので、山麓の取りやすい石垣から多くの石を安土山に運んだ事でしょう。
天正4年4月の石積み開始から、まずは一番工期がかかる天守台を作り、翌年の天正5年8月24日の立柱に至ります。立柱には、材木の荷揚げ、切り込みもいりますので、天守台と主郭の石積みに14カ月程かかっています。
平城の名古屋城は、大名普請で集めた人足の20万人を同時に使って石積みにとりかかることができましたので、8ヶ月で石積を終えています。
山の上での建築施工の前には、敷地造りの土木工事(山地の切り盛り、石垣積)あり、その前に石の荷揚げの道を作る事が肝心でした。


もとより、作り話です。大石を車軸ではうけられません。
現在の伝大手道の石の階段の姿から、誠仁親王が天皇となって、安土城に御幸される事は十分に想定されますが、あの40度の急こう配を輿にのって登る事はできません。ひっくり返ってしまいます。安土山の南側に東山道を引き込んで作った脇街道に対して、信長の威容を示したのでした。
私は観音寺山城の石垣を南の東山道から見上げて「信長が、また、真似たんだ。」と気づきました。
論考「小説 安土城物語」のネタばらし(その18)へ続く
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