姫路城(中)池田の築城の1
Castle Tower and Mansion (4) Himeji Castle
I'm reposting my impressions of castles I visited 13
years ago (September 2013 ) by car, including Kochi Castle, Matsuyama Castle, Okayama Castle, and Himeji Castle.
13年前に車で高知城、松山城、岡山城、姫路城を回った城の印象記録を転載します。
第二章 池田輝政の築城
1582年天正10年、本能寺の変が勃発、秀吉(1537~98)は明智光秀、柴田勝家を倒し、天正13年完成したばかりの大坂城に移ります。1590年天正18年に北条を滅ぼし天下一統を果たします。この間、姫路城は西国の要として重視されており、秀吉の弟の豊臣秀長(1583~85の間)、正妻ねねの兄の木下家定(1585~1600の間)が置かれていました。
関ヶ原の戦いの後、徳川家康(1543~1616)57歳の指揮下に家康の娘婿の池田輝政(1565~1613)35歳が実質100万石を得て姫路城に入り、1613年慶長18年に48歳で没するまで14年間に、秀吉の築いた天正の姫路城を根本的に大拡張し、現在みられるような姫路城の全容が完成しました。
築城のいきさつとしては、以上でよいのでしょうが、なぜ家康=輝政で、幕府正統の石工、穴太=堀金出雲に石塁を積みさせ、市川の流れを変え、姫山と置塩山を堀で囲む城郭22haを完成させ、寺を移設してまで城下町の整備をはかったのか。
さらに、大工棟梁・桜井源兵衛に任じて、慶長6年より大々的な城の改造をし複雑な曲輪を作らせ、遅れて7年後の慶長13年に環立式の大天守に取り掛かり、翌年1609年に竣工させたのでしょうか。
名古屋城(城郭35ha)は慶長15年に20万人を動員して石垣普請を始め、1612年慶長17年に天守を竣工させ、町民の清洲越えをしています。
姫路城は、関ヶ原の戦いで家康の敵となった毛利、島津を西国で牽制するために、小早川の岡山城とセットで当初は整備されたのですが、家康は歳を取って豊臣家の滅亡をはかります。
大坂城いる豊臣包囲網として、二条城(1603)・伏見城(1603)・彦根城(1606)と、家康は城を順次作っていましたが、藤堂高虎に、丹波亀山城(1610)・伊賀上野城(1611)・津城(1611)・名古屋城(1612)と立て続けに城づくりを指示した頃に、豊臣家の滅亡を決心したのではないでしょうか。慶長16年(1611)3月28日、徳川家康68歳は豊臣秀頼19歳を京都の二条城に呼び出しています。
それに合わせて、名古屋城、姫路城において、秀吉の大坂城を凌駕する大天守の威容を示させたのだと私は考えています。
名古屋城のように、手間のかかる天守は城郭では真っ先に作りだすべきであるのに、姫路城大天守が7年後の着工となったのは、家康が親藩・譜代並みに遇した池田輝政ですが、代が変われば所詮外様ですので、家康が池田に大財を使わせたくなった事もありましょう。
豊臣家の滅亡と共に、家康についた秀吉子飼いの大名、片桐且元(1615年)福島正則(1619年) 加藤嘉明(1627年)加藤清正の息子(1632年)も、幕府に消されていきます。



秀吉の大坂城の全容(城郭50ha)は秀忠の城の下で分かりませんが、天守だけで比べたら、姫路城が一番の威容を示しています。
●池田恒興(1536~84)
池田家と信長、秀吉、家康との関わり、池田家の城づくりの実績を書いておきます。姫路城を作った池田輝政の父、恒興からです。
恒興は信長より2つ下で、信長の乳母の子であり、子どもの頃より小姓として信長の近くにいました。元亀元年(1570年)の姉川の戦いで活躍し、34歳で犬山城主になります。

秀吉が長浜城主になるより3年早かったのですが、天正5年(1577年)中国攻めは秀吉が命じられます。信長は方面別に、柴田勝家の北陸、明智光秀の丹波・京、佐久間信盛の石山寺・雑賀、滝川一益の関東と武将を担当させますが、池田は信長に命じられませんでした。天正8年(1580年)摂津国花隈城の戦いに勝ち、44歳で伊丹城を与えられます。

天正10年(1582年)3月、織田・徳川連合軍による武田征伐では、二人の息子(嫡子元助、輝政)を出陣させて自身は摂津を守り、5月に備中高松城を攻撃中の秀吉の援軍に向かうことを信長に命じられます。しかしながら、同年6月2日信長が明智光秀に討たれます。いまだ伊丹に在国しており、6月11日に羽柴秀吉が中国攻めから引き返して尼崎に到着すると、中川清秀、高山右近らの摂津衆と共に合流します。
このとき、豊臣秀次を池田恒興の娘婿に、次男輝政を秀吉の養子とすることを約束したと伝えられます。信長を偲んで剃髪し、勝入と号しました。
天正10年6月27日、山崎の戦い後に開かれた清洲会議には秀吉、柴田勝家、丹羽長秀と共に織田家宿老として参加します。領地の再分配では摂津国大坂・尼崎・兵庫12万石を獲得し、恒興は大坂に移り、元助は伊丹に、17歳の輝政は尼崎に入りました。

中央左の四角に本願寺があり、ここに4万人が籠った。

城郭は水路に囲まれている。
ところが、天正11年(1583年)、秀吉は摂津国・大坂本願寺(石山本願寺)の跡地に黒田孝高を総奉行として大坂城を築き、天正13年には大坂城に入ります。
池田は天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いには参戦しなかったのですが、織田信孝の自刃の後同年5月美濃国13万石を摂津国の代わりに拝領し、恒興は大垣城に、輝政は枝城の池尻城に入り、岐阜城には元助が座ります。


天正12年(1584年)、秀吉と信雄が断交して小牧・長久手の戦いが始まると、元助、輝政と娘婿・森長可と共に犬山城を攻略したが、長久手で徳川家康軍に大敗し、池田恒興、元助は戦死し、逃げ延びた輝政が家督を継ぎます。信雄が秀吉に和を乞い、輝政は19歳で美濃国を継ぎ大垣城に入るも、秀吉は天正13年に岐阜城に移します。
羽柴の姓をもらい、天正16年(1588年)に23歳で従四位下侍従に叙任、豊臣姓を下賜されます。
天正18年(1590年)の小田原征伐・奥州仕置で秀吉の天下一統がなると、豊臣秀次が織田信雄のあとの尾張清洲城に入り、輝政は美濃国から三河国の内、渥美・宝飯・八名・設楽4郡(東三河)において15万2,000石に加増され、吉田城主となります。
これは、徳川家康を東海から関東に追いやり、秀吉の与力で東海を固める手立ての一つでした。
岡崎城(田中吉政)、吉田城(池田輝政)、浜松城(堀尾吉晴)、掛川城(山之内一豊)、駿府城(中村一氏)です。松本城(石川和正)犬山城(石川光吉)と合わせて、関東にいる家康をけん制する布陣です。
文禄3年(1594年)秀吉の仲介によって、徳川家康の娘・督姫を娶り、慶長3年(1598年)8月、秀吉が没すると家康に急接近します。慶長4年(1599年)閏3月3日、前田利家が死去すると、福島正則・加藤清正・加藤嘉明・浅野幸長・黒田長政らと共に石田三成襲撃事件を起こし、関ヶ原の戦いでは、家康から秀吉恩顧の武将としてあえての先鋒を命じられます。福島正則、池田輝政、黒田長政、浅野幸長、に目付として本多忠勝、井伊直弼がつきました。岐阜城を良く知る輝政は、籠城する織田秀信を降伏させます。
慶長18年(1613年)1月25日、50歳で死去。
輝政が中風を患ったと本多正純から事情を聴いた家康は、中風の薬として烏犀円を遣わしています。
豊臣秀頼の重臣らが輝政の死を聞いて愕然として「輝政は大坂の押へなり。輝政世にあらん限りは、関東より気遣ひなく、秀頼公の御身の上無事成るべし。輝政卒去の上は大坂は急に亡さるべし」(『埋礼水』)と語ったという逸話も残されています。
姫路城を大坂城包囲網でなく、大坂の押へとは、後世の作り話でしょうが、豊臣恩顧の大名が徳川の世に残る名城を作ったとは言えます。加藤清正は、1607年に熊本城を作り、豊臣家を一大名として残せなければ、熊本城に秀頼を呼び入れる事も考えていたとの話もあります。
●名を後世に残したお城です。
高橋の独断ですが、58あげます。明治の廃藩置県では200程あった藩ですが、1602年の江戸幕府下の藩、城は150程ですので、その三分の一になります。天守なのか櫓なのかは、江戸城の富士見櫓と丸亀城天守、弘前城天守と見比べて思うに、その決定は城下町の人々によるものでしょう。
慶長年間に47です。いかに関ヶ原の戦いの後に城が作られたかが、よくわかります。
豊臣との戦いの実戦を想定した城および天守なのですが、それより、江戸幕府により150もの近世都市が一斉に誕生し、その都市の政治の中心となる城郭に、都市のランドマークとしての天守が必要とされたのでした。
元亀3年:光秀の坂本城
天正(てんしょう):1573年〜1592年(安土桃山時代、織田信長〜豊臣秀吉の時代)
7年:安土城、光秀の福知山城
9年:秀吉の姫路城
13年:秀吉、大阪城に入る。
文禄(ぶんろく):1592年〜1596年
3年:犬山城
5年:松本城
慶長(けいちょう):1596年〜1615年(関ヶ原の戦い、江戸幕府開府)
元年:伏見城(4回作られた)、大垣城
二年:岡山城、丸亀城、唐津城
三年:高崎城、大坂城(秀吉が死に、秀頼が入る。聚楽第、伏見城に財を使い完成が遅れる。)
四年:金沢城、広島城

木造での天守の復元なぞ、400年の都市史を経てなんの意味があるのでしょうか。岡山城のように改修すればよいのです。
「文化庁が木造でしか史跡に建てていけないと言っている。」と、NHK小野文惠アナウンサーは嘘をばらまいています。
観光ネタには多少はなりましょうが、重要文化財に指定された戦後建設の丹下健三設計の平和記念堂に対して、
広島市民の戦後復興のシンボルとして作られたコンクリ―ト天守の価値の方が、城マニアのお遊び「木造天守」よりよほど価値があります。
小野アナウンサーは、竹中工務店は請負契約をしたのに名古屋城天守木造化事業から逃げ出した、その理由を説明しないといけません。石垣保持、身障者対応の問題ではなく、高層の木造は危険であり、建築基準法、消防法によって禁止されています。
五年:仙台城、和歌山城、福岡城
六年:宇都宮城、福井城、小浜城、膳所城、鳥取城、熊本城、高知城
七年:久保田城、鶴岡城、佐野城、小倉城
八年:松山城、二条城
九年:津山城、萩城
十一年:江戸城、熊本城、彦根城
十二年:駿府城できるも火事で消滅
十三年:米沢城、佐倉城、上野城、佐賀城、姫路城
十四年:津城、篠山城、亀山城
十五年:駿府城(燃えた後のⅡ期完成)
十六年:弘前城、松江城
十七年:名古屋城
十九年:小田和城、高田城、岡崎城、宇和島城
慶長年中:上田城、大分城
元和(げんな):1615年〜1624年(大坂の陣、元和偃武、一国一城の令)
五年:明石城
八年:福山城
寛永(かんえい):1624年〜1644年
5年:丸岡城
6年:秀忠の大坂城
以上、「お城とは、都市である。」の姫路城でした。
姫路城(下)池田の築城の2
第一項 池田輝政の吉田城
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