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丸亀城 5万石

33年ぶりに行きました。20090923記
標高66mの小丘とその周辺の平地を取り入れた平山城で、瀬戸内海に面した北方に大手口を開く。明治2年の火災、廃条令により、天守と大手門1670年しか残っていません。


●築城の概略

室町時代の初め、管領細川氏の家臣奈良氏が砦を築いた地と言われ、天正15年(1587年)生駒親正(1526~1603)が12万6千石の讃岐領主となり、高松城を築きます。慶長2年(1597年)その一子、一正がここに城を築いたのが丸亀城です。

生駒家は信長に繋がった家であるが、親正は姫路時代の秀吉につく。御供所町、西平山、北平山の三浦と呼ばれるエリアと、南条町、本町、塩飽町のエリアを基軸に城下町を形成した。

関ヶ原の戦いでは、親正は西軍につき、一正は東軍につき、領土は安堵されますが、幕府の1615年「一国一城令」によって丸亀城は廃城となります。
1641年島原の乱の功績により、山崎家治が讃岐国丸亀藩5万3千石に封じられ、城は再び整備されました。
家治は「築城の名手」といわれ、1620年の秀忠の大坂城築城工事において天守・本丸・二の丸の石垣構築に携わり、大坂城天守の石垣には山崎家の刻印が施された石が散見されます。
この後1658年に京極氏が入り、1660年にようやく城は完成します。そのまま、明治維新に至ります。

南海道では、和歌山の街区だけが飛び抜けて大きいが、四国の各都市は、秀吉の時代に作られており似ている。
周囲道路の町人地の一街区の平均値は0、84ha と小ぶり。

●ブラリ、丸亀城

来ました、丸亀。
標高66m。全山、4重の石垣の上に チンマリ天守閣です。

お城のない城跡でも石垣が残っていることが多いです。わずか50年での急激な発展ですので、石垣の姿から時代が読めます。

奇麗な打ち込みハギ、1620年の秀忠の大坂城築城をおこなった山崎家治の5万3千石の石垣ですね。石垣好きがこうじて立派に作り過ぎてしまい、建屋が石垣の壮麗さに追いついていません。1597年から、高松藩17万石の枝城として、生駒一正が築ける石垣ではないです。高松城は、生駒親正が1590年頃に築いた「野面乱積(のづらづみ)」です。

これは、三の丸から見上げたところです。

映画 「安土城を創る」 を やっていますね。大竹しのぶ が、いい味を出しているとか。予告編をみましたが、安土の山も こんな風に石垣だらけの姿だったようです。

ウ~ン、天守はこんなの。

名古屋城の隅櫓に 唐破風を ひとつ くっつけた感じ。
一層目の黒の板張りも南北しかなく、東西の白い壁とのミスマッチに笑っちゃいました。

完成が1660年というから、ホント、城建設の末期ですね。
「層塔式」のバランスの良さは、3層ではかえって貧弱に見えます。「望楼式」の犬山城、丸岡城の方が 良くおもえます。

主役は、石垣ですな。遠くに、今渡ってきた 瀬戸の大橋が見えます。

北の海に向かって、城下町があったようです。いまは、学校・役所になっているところ。さらに外堀があり、町人地から港につながっていた。と。

天守3層目の、内部です。太く、荒々しいままに、積み上げています。ホント、積み木のようですね。

安土では、万国博のために復元した豪華絢爛の天守内部が見られましたが、城の値打ちも、このころになると、城下への威容を示すだけのようです。

大手からの絵。姫路城のごとく、櫓が4つほど白壁で繋がれた姿を思い浮かべれば、「威容」ですね。

天守の中に、こんな絵がありました。
(ガラスが光って <m(__)m>

大手の枡形からは、馬も一気に登れる道がついています。1645年、平和時の姿なんだ。と、一人がってんをしつつ、解説を読んでいましたら、1597年の生駒氏の築城開始は、南の方を大手に、とありました。今の搦め手です。確かに、石垣は複雑、門の遺構も多いです。

搦め手から、南をみる。

のどかな四国の景色のポイントは、山の稜線のなだらかなところでしょうか。左の山が、こんぴらさん。です。

当初、計画された大手筋、南からみる。

搦め手の石垣は、圧巻でしたが、おおい茂る樹木の影で、写真には映りません。
魚眼レンズでも持ち込まないと 撮れない石垣でした。

 3段になっています。
2018年7月の西日本豪雨24号台風によって石垣が崩れる。
2025年から30年にかけて、86億円でなおす。

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