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名古屋城は天下一の名城である。(中)


第ニ段 名古屋城の建設

第一章 まずは、石垣普請(土木工事)

慶長15年(1610年)閏2月、前年の11月に征夷大将軍秀忠から指名された豊臣恩顧の大名が自ら、配下を引きつれて集まりました。石垣の担当は、加賀の前田利長、豊後の毛利高政、長門の毛利秀就、筑前の黒田長政、肥前の鍋島勝茂、肥後の加藤清正、豊前の細川忠興、安芸の福島正則、土佐の山内忠義、阿波の蜂須賀至鎮、紀伊の浅野幸長ら20余家でした。築城への外様大名の助六、いわゆる天下普請は、慶長7年の伏見城・二条城から、江戸城、駿府城と切れ目なく続いており、財力はかなり疲弊させれていたことでしょう。普請奉行の5名、作事奉行の9名は、徳川譜代の家臣です。

1万石につきそれぞれ38坪の割合で丁場が決められたのですが、特に54万石の加藤清正は肝いりとして3割増しであり、天守と小天守の石垣を担当しました。熊本城天主は慶長12年(1607年)にすでに完成しており、清正流の優美な石垣は世に知られているところでした。清正の配下には、普請奉行では「ニ角」と呼ばれた飯田覚兵衛・三宅角左衛門がおり、近江国志賀郡坂本村の穴太から来た戸波平左衛門、熊本城百間堀の原田茂兵衛もいたので、江戸城の石垣と同様、彼らも名古屋に来ていたのでしょう。

「石材」は、主として春日井郡味岡荘(現在の小牧市~犬山市)からで、1トン平均にプレ加工し、陸路を人海戦術で運びました。不足分は美濃・篠島からも入れています。木材は木曽谷から「お囲堤」によって整備された木曽川を下り、熱田の港経由で、良材を得ることが出来ました。

築城図屏風  築石は一個1トン程度に石切り場でプレ加工

従事した人夫は、20万人に及び、半年後の8月末には土木工事は完成しています。

縄張り名人の伊勢・伊賀22万石の藤堂高虎の名前が出てきませんが、同じく築城名人と評された肥後55万石の加藤清正が大金を持って名古屋に出張り、本丸石垣の設計施工を陣頭指揮しているので、同じ秀吉配下であった普請奉行佐久間政実が土木工事をまとめたのでしょう。

藤堂高虎は伊勢路から東に攻めてくる豊臣方を押さえる津城(1608年)におり、東山道を彦根城(1606年)で押さえる井伊家18万石と同じく、家康が最も信頼する強い譜代大名でありました。
慶長14年(1609年)の城と城下町の縄張りは、大工の中井と共に現地を歩き、藤堂高虎が縄張りの絵を描いたものと思います。家康が指示した城づくりには、この二人に奉行の小堀と佐久間を加えたカルテットがいつも顔を出していることと、駿府城の本丸の縄張りと名古屋のそれが大変似ている事からです。

名古屋城 曲輪  三の丸の北東が閉じないままに

「外・馬出し」は名古屋城本丸の特徴となっていますが、それは高虎によるのだと戦前の城戸久の論考にあります。藤堂と中井のコンビによる慶長12年の江戸城では、天守と小天守をつなげ、「馬出し」を大手門の外に「郭」として置き、城に籠った兵がうって出るための広場としていました。内に籠る兵が多い、平城ならではの縄張りです。なお、明治26年に名古屋城が離宮となり天皇の宿泊所とするとき、使い勝手が悪いと「外・馬出し」は、埋められました。

「縄張り」を解説すると、自然の地形を利用して守りに固い、城の土木計画図を描き、天守・櫓の配置を決めるということです。城郭の「郭」は、本丸、二の丸、三の丸などを示しますが、川と崖を利用し、掘、石垣、土塁を作ることによって形にします。これを「曲輪」ともいいます。出入り口は、「馬出し」「枡形」を作り、防御の形としました。「虎口」ともいいます。
平和な江戸中期に兵学が流行り、その論によって、城マニアは廃城めぐりを楽しんでいますが、大坂冬の陣において、堀をらくらく越える大砲が輸入され大変な威力を発揮したので、名古屋城のこの縄張りもすでに古いものとなっていました。

「総曲輪」とか、「総構」「外構」と言う、城郭と城下町全体を土塁・堀で回すものも、日本では稀ではありますがありました。寺内町、堺、信長の岐阜、北条の小田原、村木の宝塚、秀長の大和郡山、秀吉の京と大坂、江戸です。
名古屋も実は、南は古渡、東は矢田川、西は庄内川として土塁を築く縄張りがあったのですが、豊臣が滅び、総曲輪はもちろん三の丸も未完で終わっています。戦後、庄内川の名古屋側の堤防を高くする事だけは直ちに行われました。

家康が大坂夏の陣の後、慶長20年閏6月(1615年)に「一国一城令」を出し、大名は居住し政庁とする城だけ残し、他を廃城せよとしたので、もう、総曲輪にするどころか、城の補修すらままならなくなりました。戦う城を幕府は認めません。
一方、残された150余の城下町は、町の7割を占める武家地を消費者とする都市化が進み、江戸時代の農本社会において都市のネットワークを形成し、そのまま現代の都市の基となっていきます。

建築工事は、作事奉行小堀遠州と大工頭中井正清を中心に譜代の人々で行われ、慶長19年の冬の陣の前に、御殿・櫓もふくめ完成しました。中井家に「急げ!急げ!」の江戸からの手紙が残っています。

内藤昌 城の日本史
名古屋城二の丸 南側の石垣  
江戸時代は水がはられていましたが、今は鹿を飼っています。

第二章 天守

駿府城(1607竣工)と比較してみてください。慶長17年(1612)の天守の竣工は、今も残る、姫路城(1609)・松本城(1595)・彦根城(1606)・松江城(1611)と比べ遅い竣工だから進化したのだというのでなく、大工中井の一頭他を抜いたデザイン力によるものです。それは、確かな技術によって裏打ちされたものでした。

この後は、元和の広島城、寛永の会津若松城、江戸城と一国一城令に従い、建て替えが行われますが、塔のように一定の低減率によって積み上げ、飾りとしての派風が付くだけのつまらないものとなりました。町のシンボルとして高さが欲しいだけの天守は、普段使うことがないのに維持費がかかり、江戸城が明暦の大火(1657)に燃え、もう天守を作らないとされたことによって、消えたのでした。安土城(1579)に天守が生れて35年、名古屋城は最高傑作、究極の天守です。

内藤先生は「城の面白さは、あの素野にしてダイナミックな空間構成の多様性であろう。この点から見れば、当時の人智の限りをつくした名古屋城は、整いすぎて面白みにかける。社寺建築を見るような整然とした威圧感を表現しているのは、中井の優れた設計によるからに他ならない。」と揶揄していますが、私なぞは、ただただ中井正清を嫉妬しています。
内藤の言葉を具体的に言うと、駿府城で懲りたのでしょう、耐火性を高めた白い漆喰の壁に、銅の屋根のバランスの妙です。寺社なみの軒ぞりの美しさです。

この安定感は、上層への逓減率をきつくして、釣鐘状にしているからです。優美な破風も正面は直線ではありません。軒先が垂れて見えないように引き上げています。ゲシュタルト心理学です。

当初は最上階だけ銅で下層階は本瓦でしたが、軽くする事すなわち地震に耐えるように江戸中期に全階を銅としました。

このバランスを言葉で示します。内藤昌が「前期層塔式」と名付けたように、塔としての要素、①内部の階数と外観の層数の一致②平面は上階に行くほど小さく低減している。③2層目と3層目を、大入り母屋派風(大きな千鳥派風)にすることはもちろんなく、隣あう面を比翼入母屋とし、さらに1層目と4層目に唐派風を設けて、リズミカルなバランスを取っている。③1.2階は同じ平面であり、2~3層、3層~4層、4層~5層の低減率を徐々にキツクして、全体を釣り鐘状の形にして、どっしりと安定させている。 姫路城のような「後期望楼型」では、矢倉の上に望楼を載せた形が残り、大屋根の上でクビレが残りますが、名古屋城では、もう完璧にありません。最上階は、望楼として廻縁をまわすことなくポツ窓としていますが、柱型と長押型を塗籠で張り出して意匠としています。廻縁は雨漏りの原因となるので、やめたのでしょう。実利的にかつ美しいです。

最上階の窓が大きいのは、戦後復興天守の設計において、天守に展望台の機能を持たせ、倍の幅にしたからでした。国宝名古屋城では殿様に「展望」は要りませんので、下層と同じ窓が並んでいました。殿様が天守に登るのは、領主になってお国入りした時の一度だけでした。

柱の入れ方により、天守の進化がわかります。姫路城の二本の大黒柱は有名ですが、名古屋城のように、外壁に沿って、籠のように柱を組む方が、5重の塔の実績から言って、地震に強いと思います。伏見城の倒壊から、柱を多くしています。長い柱材は手に入らなないし、どの城もとんでもないスピードで作っていますので、2層分ずつ柱を相互に貫入させて組んでいます。松江城は、見た目は古い望楼型ですが、柱の入れ方は互入式通柱です。1611年竣工と名古屋とは近いです。寛永の江戸城は、もう内部も柱だらけにしてしまいました。内部空間はどうでも良かったのです。

内藤昌の文章をここで入れます。素人が読んでも何を言っているのかわからない世界だと決めつけず、読むことに挑戦してみてください。

「望楼型では、下層の建物の柱と上層の建物の柱はそれぞれ独立して組み立てる。内部で言うと、およそ2層分ずつ通し柱を配してその頭に梁を井桁に組み、それを一構造単位となし、数単位を重ね合わして高楼を築く。「井楼式通し柱構法」と称するもので、前期望楼型天守の原則的な構造である。たとえば、岡山城や松本城天守はみな井楼を3重に組んでいる。しかし、この構造では、上・下の通し柱の位置が不一致ゆえに井楼を組む梁を必要以上に太くせざるをえず、なおかつ地震や強風などの横力にも弱い。そこで、慶長元年の大地震で倒壊した経験を踏まえて伏見城Ⅲ期から、通し柱を統一して計画、通し柱を各階交互に配することを可能にして、天守全体を一体的に組み上げる構法を発達せしめたのである。「互入式通し柱構法」というのがこれで、後期望楼型の姫路城では、地階より石垣6階床下までの大通し柱が見られるにすぎないが、前期層塔型の名古屋城では、各階側柱位置に互入式通し柱がみられる。さらに、後期層塔型の寛永年度の大阪城では、88本に及ぶ通し柱を複雑に組み、側柱を自由にして、低減率一定の外観を整える。
また後期望楼型から前期層塔型へ移行する過程で、一間ごとの側柱の間に中柱をたて、また隅に「筋違」を入れる。実例として姫路城天守がある。江戸時代になると、さらに地震に対する構法が発達し、寛永年度江戸城天守・寛永度大阪天守城天守は「火打」が使用されていた。遺構では、宇和島城がある。」

第三章 「城」その意味の変遷

「城」の文字は、古事記・日本書紀にもありますが、「キ」「サシ」と、古代朝鮮語の読みでした。なら、東北辺境に儲けられた「柵」との区別は?私にはわかりません。私はモノがなくても文字だけで妄想できる”学者“ではありません。

平安京は、中国の「都城」制により、条坊制の街区の周りに羅城を設けるとあったのですが、長安のようにおこないませんでした。そして、元寇の時には、土塁と石垣で防衛線を作りましたが、「城」とはいいませんでした。

室町になると「城」を「シロ」と呼び、14世紀の太平記には「城を枕に討ち死すべし。」とあります。和語の「シロ」の「領有して他人に入らせない一定の領域を示す」意味が「城」の訓に使われて、中世になると、戦闘の備えをもつ武士の守護所も全国にあり、後に言いう城郭とか城下町とかの広い領域を示して「城」としたのでしょうか。苗代のシロ、矢を射るための場所の矢代のシロ、神に捧げる稲を植える区域を神田(ミトシロ)と、シロは領(シリ)の名詞形として例は多いようです。

村上要害図

「要害」という言葉が吾妻鏡以来あります。「要害」は、文字からなんとなく山に作られた砦のイメージを私はもつのですが、その具体的な形となると文字からだけではわかりません。一方、「一遍聖絵」は13世紀ですが、「館」という武士の住まいに、防備の堀・柵・櫓を設けた絵があります。そして、山城では、「根小屋」という言葉があります。 時代は下がるのですが「村上要害図」というのがありますので、これを当てはめて見ると、山城とは、山の頂に「要害」をもち麓に「根小屋」という「館」をもつもののだと言えます。織田信長の小牧城は、そんな感じなのでしょう。

これが、信長の岐阜城、朝倉の一条谷になると、館の大型化した城郭が町をシモに抱くことになります。領国経営のために、領主自身の館の周りに配下を集めて住まわせ、手工業・商人を集め、城下町は生まれたのでした。

山城は平山城に、そして平城へ。「要害」であることは人工的に土木工事で作り出してでも、城下町を抱きやすい広い平地であることが必要となり、その大きくなった城下町には社会性・政治性が生れ、城主の権力を表すシンボルが必要となったのでした。

この砦から町への変遷は、西洋でも同じでした。「要害」はドイツではブルグでしょう。領主が城下町も城壁で囲い込み、農村と隔てたところが、日本と違って都市の姿を明確にしています。領主は尖塔を建て、教会が広場に面し、時を経て、広場に面し庁舎と時計台が建ちました。

日本では、城主の城下町へのシンボルとして天守が生れました。

安土城  近江八幡市作成

天守の嚆矢、安土城を追いましょう。「天主 テンシュ」が、信長の命名です。「天下布武」の信長は自らを神にすべく、その装置として「館」をあの形にしました。天主は天下人として実際に住んだ大型の「館」なのでした。「根小屋」でなく、平山城の「要害」を「館」にしてしまったのです。
「テンシュ」から「殿主」「殿守」と言う漢字が「主殿」という室町の館の言葉から連想され、一時使われもしました。
しかし、信長の跡を継いだ秀吉は、大坂城天守をすぐに建てますが、秀吉は天守に住むことはなく、足元に「館」を建て住みました。土木の力があれば、住むには平屋が良いです。そこで、城の守りとしての「天守」の漢字が「テンシュ」として一般化されました。

長篠合戦図屏風

信長の天主の形は、「長篠合戦図屏風」にある、矢倉の上の望楼から発想されたのは間違いがないと思いますが、6重めの八角形、7重めの4角形は、そのインテリアとあわせて、金閣寺からの援用だと思います。ここは接待空間でしかありえません。5重目は屋根裏ですので、住まいは4重めまででした。

第四章 御殿

領主の「館」は室町の「主殿づくり」から、洗練された文化を得て「書院づくり」を完成させました。城の「御殿」です。

名古屋城本丸御殿は手狭だと、義直は元和6年(1620年)二の丸に移っています。その後、寛永11年(1634年)、将軍家光が上洛する時の名古屋宿泊所として、本丸御殿に「上洛殿」が増築されました。

御殿図 「城の日本史」より
本丸は慶長16年(1611年)二の丸は元和6年(1620年)

以後、明治天皇が宿泊するまで本丸御殿は天守ともども160年間使われていませんでした。これが、襖絵が綺麗に残っていた理由なのですが、「書院づくり」は、殿様の住いと封建時代の行政の場であるという解説ともども、名古屋市は何も観光客に語りかけません。150億円もかけ復元された本丸御殿は、まったく生かされていません。

慶長年度の本丸で、注視するところは、小天守への入り口です。小天守の南の階段から枡形を経て入っています。防御を考えるなら当然の形ですが、広場「武者だまり」のところに上洛殿を作ってしまい、今のように北側から直接小天守に入るようになり、「奥」を取り壊して、「武者だまり」としたのでした。平和のなせるところです。

名古屋城は天下一の名城である。(下)

第三段 名古屋城の現地案内

第一章 名古屋城の石垣を市澤泰峯さんの案内で。2015年11月記。

に続く。


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