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日本養生前線…社会は薬箱になれるか?

第四十七話|北海道編 ー全うするー

斗満原野に立つ

陸別町、斗満の原野。

十勝の最北端に位置するこの地は、日本一寒い町として知られる。 冬になればマイナス三十度を超えることもある。 見渡す限り広がる原野に、木が生い茂り、川が流れ、野生の動物たちが動いていた。

1902年(明治35年)8月、一人の老人がこの原野に立った。

七十二歳。 関寛斎。

四十年以上を医師として生きてきた男が、すべてを手放し、原野の開拓者としてここへ来た。 重い鍬を手に、木を切り、根を抜き、土を耕した。 七十二歳の体で。


養生心得草という書

関寛斎は、医師として「養生心得草」という書を著した。

その思想は、三つの柱から成る。 養生(健康管理と予防)、運動(積極的な鍛錬)、医療(適切な科学的対処)——この三つを総合することが、人の健やかさを守るという考え方だ。 養生は予防であり、運動は体を作ることであり、医療は最後の手段。 その順番を、寛斎は大切にした。

しかし寛斎の養生は、個人の健康に留まらなかった。 「世を済す」——世の中を救うという社会への志が、彼の養生の根底にあった。

病人を治しても、また病人が生まれる。 貧しい人を助けても、また貧しい人が生まれる。 個人を治すことと、社会を治すことは、違う。 本当の意味で人を養生させるためには、生きる土台——土地と食と共同体——を整えなければならない。

その答えを求めて、七十二歳の医師は、北海道の原野に鍬を振るった。


百五十年後の恵庭で

関寛斎が陸別の原野で問い続けた「社会の養生」は、未完のまま終わった。 しかしその問いは、消えなかった。

百五十年後、北海道の別の土地で、同じ問いを持つ人間たちが現れた。

恵庭市——石狩平野の南に位置する、人口約七万人の街だ。 千歳川が流れ、自衛隊の基地があり、花の街として知られるこの地で、二つのプロジェクトが静かに動き始めている。

一つは「Fighters恵庭Method」。 もう一つは「えにわ養生の里」。 この二つが、関寛斎の問いへの、現代の答えだ。


Fighters恵庭Methodという提案

北海道日本ハムファイターズのファーム移転を機に日本養生普及協会が提案しているFighters恵庭Methodは、野球と市民の養生をむすぶ、恵庭独自の取り組みだ。

核心は「健康住民票(ヨウジョウパス)」という概念だ。 打率、防御率、出塁率——選手のパフォーマンスを数字で見るように、市民の健康状態を「自分のKPI」として見える化する。 体重、血圧、歩数、睡眠時間を記録し、改善し、誇りにする。 市民一人一人が、自分の体の「選手」になる。

ここに、関寛斎の「養生心得草」との驚くべき重なりがある。 寛斎が説いた養生(予防)はヨウジョウパスの日々の記録に、運動(積極的な鍛錬)はファイターズの選手たちと市民が共に体を動かすプログラムに、医療(科学的対処)はデータに基づいた専門家のサポートに——それぞれ、百五十年の時を超えて現代の形に生まれ変わっていく。


えにわ養生の里という構想

もう一つの答えが、「えにわ養生の里」だ。

恵庭市の造園会社が南島松地区に創造しようとしている、次世代の「養生インフラ」だ。 造園のプロフェッショナルが、その技術を注ぎ込んだ全天候型グリーンハウスと四季の庭園を融合させた複合スポット。 「人と土が巡り、四季を紡ぐ」——そのコンセプトが、この場所の核心を語っている。

この構想の根幹には、二つの循環がある。

一つは「人の循環(Human Loop)」——四季の移ろい、植物の香り、土の感触に五感で触れることで、日々の疲労を癒し、心身の健康を取り戻すサイクルだ。 養生サロン、園芸療法エリア、静養・ととのいの間、世代交流ゾーン——六つの機能的ゾーニングが、訪れる人を自然と養生へ誘う。

もう一つは「地球の循環(Earth Loop)」——家庭で不要になった土や枯れた植物を回収し、造園のプロ技術で再生させ、循環培養土として地域に還す。 捨てることなく、すべてが巡る。 これは百五十年前、関寛斎が陸別の土を耕して土壌を豊かにしようとした行為と、根っこが同じだ。


二つのプロジェクトが重なる場所

Fighters恵庭Methodとえにわ養生の里——この二つは、一見違う取り組みに見える。 一つは野球と健康データ、もう一つは土と植物と庭園。

しかし根底に流れるものは同じだ。

Fighters恵庭Methodが「人の体の養生」を野球という文化で届けようとするなら、えにわ養生の里は「人と土の養生」を自然体験という文化で届けようとしている。 どちらも、養生を「個人の健康管理」から「地域の文化」へと昇華させようとしている。

宮城編で東北新生園を訪れたとき、こんな言葉が生まれた——「養生は、地域とともに生きる。養生は、地域とともに育つ。」 その言葉が、恵庭市で二つの形をとって現れている。


土が人を育み、人が土を育む

えにわ養生の里が描くThe Sustainable Loopは、美しい。

庭園で四季を感じ(Experience)、季節の花苗や再生土を持ち帰り(Take Home)、家庭で不要になった土や枯れた植物を持ってきて(Return)、造園会社の技術で土が再生される(Regenerate)——その循環が、また庭園へと戻っていく。

これは江戸の糞尿経済と同じ構造だ。 東京編で学んだ「巡る」が、ここで現代の形をとっている。 都市から排出されたものが農村の栄養になり、農村が都市を養ったように、家庭から出た土が再生されて地域を豊かにする。

そして福島編で学んだ「土地力」——土を守ることが地域を守ることだという思想が、えにわ養生の里の「土壌循環リサイクルプロセス」として具体化されている。 関寛斎が北海道の土を耕したのと同じ志が、百五十年後の恵庭で、造園技術という現代の形をとって生きている。


伊藤和憲という源流

この旅には、もう一人の人物がいる。

伊藤和憲——日本養生普及協会の会長だ。 明治国際医療大学の教授として、鍼灸の科学的エビデンスを追求し続けてきた研究者・臨床家だ。 しかし彼がこの二十年間、言い続けてきたことは、研究の話ではなかった。

「養生を、もう一度見直してほしい」。

二十年間、言い続けた。 加賀屋の仲居さんが何万回もお茶を出し続けたように、伊藤先生は二十年間、同じ問いを、同じ言葉で、言い続けた。 その積み重ねが日本養生普及協会という器を生み、その器の中でこの旅が生まれた。

そして伊藤先生は今、さらに大きな概念を語っている。 「プラネタリーヘルス」——地球規模の健康だ。 個人の体の健康と、地球の健康は切り離せない。 土壌が豊かでなければ食が豊かにならず、食が豊かでなければ体が健やかにならない。 地球という体と、人間という体は、一つにつながっている。

えにわ養生の里が「地域と地球を繋ぐサステナビリティ」を三本柱の一つに据えているのは、まさにこのプラネタリーヘルスの思想と重なる。 Human LoopとEarth Loopの交点に、「人が健康になる行動が、地域の自然環境を豊かにする」という信念がある。


三段の連鎖、そして恵庭へ

この旅の最後に、養生という概念の進化の系譜が見えてくる。

関寛斎(明治)——「養生心得草」に個人の養生から社会の養生への志を刻み、七十二歳で原野に立ち、「世を済す」という問いを全うしようとした。

伊藤和憲(現代)——二十年間「養生を見直せ」と言い続け、社会の養生からプラネタリーヘルスという地球の養生へと、養生の地平を広げた。

そして恵庭(今)——Fighters恵庭Methodと えにわ養生の里 という二つの取り組みが、その思想を「実装」しようとしている。 野球と地域で体を養生し、庭園で土と人を巡らせ、地域という単位で健康を作っていく。

個人から社会へ、社会から地球へ。 養生のスケールが、時代とともに大きくなっていく。 関寛斎が蒔いた種が、伊藤先生の二十年で育ち、この旅という花を咲かせ、恵庭の土に根を張り始めている。


全うするということ

関寛斎は、1912年(大正元年)、八十二歳で生涯を閉じた。 理想とした農地解放を果たせぬまま、自らいのちを絶った。 その最期は、穏やかではなかった。

それでも、その生涯を振り返るとき、「全うした」という言葉が浮かぶ。 問いを持ち続けた。 手を止めなかった。 七十二歳で北海道に来てから八十二歳まで、一日も問いを手放さなかった。

全うするとは、完成させることではない。 最後まで向き合い続けることだ。

Fighters恵庭Methodも、まだ途中だ。 えにわ養生の里も、まだ始まったばかりだ。 伊藤先生のプラネタリーヘルスも、答えを探している途中だ。 だがそれでいい。 養生は完成しない。 完成しないから、続けられる。 続けることが、全うすることだ。


恵庭から、地球へ

千歳川が、恵庭の街を流れている。 支笏湖から流れ出したこの川は、石狩平野を潤し、石狩川と合流して日本海へ注ぐ。 やがて海流となり、地球を巡る。 恵庭の水が、地球を巡っている。

養生も同じだ。 えにわ養生の里で再生された土が、地域の植物を育て、人の心を癒し、やがて地球の健康につながる。 Fighters恵庭Methodで健康になった市民が、地域を元気にし、社会を活性化させ、やがて日本全体の医療費を下げる。 プラネタリーヘルスとは、その連鎖のことだ。

関寛斎が陸別の土を耕したことが、その土地の土壌を豊かにし、豊かな食を育て、人を育てた——これは百五十年前のプラネタリーヘルスだ。

養生とは、自分の体から始まり、地域へ広がり、社会を動かし、地球を癒す——その連鎖の、最初の一歩だ。 恵庭という小さな街が、今、その一歩を踏み出そうとしている。


日本養生前線、全うする。そして、また始まる。


次回は総括編…未来の養生

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