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古代ハスと装飾古墳@肥後古代の森🪷〜肥後の古代を考えるシリーズ プロローグ〜

こんにちは。前回からだいぶ間が空いてしまいましたが、今回は7月に訪れた『肥後古代の森』(の一部)の散策レポートになります。
肥後古代の森は、熊本県北部を流れる一級河川•菊池川流域に位置する山鹿市、鹿央町、菊水町、菊鹿町に整備された古代ロマン溢れる歴史公園です❣️

画像は山鹿市立博物館パンフレットより拝借。分かりやすい様に菊池川のラインを青で落書きしてみた。
広域マップでの菊池川の位置はここ↑

今回はこの『肥後古代の森』の、
① 鹿央地区より古代ハス園
③ 山鹿地区よりチブサン古墳

をレポートしたいと思います。

そして次回、
② 菊水地区の江田船山古墳
の散策レポートならびに
④ 菊鹿地区の鞠智城
にも触れ、菊池川流域の古墳時代を私なりに妄想して楽しみたいと思います。(8000字)

それでは早速、行ってみましょう🏃‍♀️


①古代ハス園(鹿央地区)

古代ハス園は県立装飾古墳館(後述)の南側に位置しており、推定2000年前の古代ハス「大賀ハス」など、20数種類が6月下旬から8月中旬にかけて花を咲かせます。↑の写真のエリアのハス園と、その西側の物産館奥にも広大な里山公園が広がっていますので、そちらの心癒される風景も合わせてご紹介したいと思います💕

まずはハス園の美しい蓮の花達の写真ギャラリーです。↓

人の背丈以上に背が高く、人の頭程の大きさの蓮の花
周囲の森の木々とも調和して美しく癒される景色✨
純白の蓮の花も美しすぎる〜😆💕
こちらの咲きかけの蓮の花は薔薇のような雰囲気🌹
こちらの花弁の多いゴージャスなハスは『舞姫蓮(まいひれん)』という品種だそうです💡
こちらの、白地にピンクの縁取りが入った珍しいハスは『金輪蓮(きんりんはす)』。

さて肝心の古代ハス(大賀ハス)は、こちらのハス園には多分無くて、物産館の西側の里やま公園の方に咲いていました。↓

古代ハス池横の解説板

解説板によると、この古代ハス(大賀ハス)は弥生時代後期の遺跡から発掘された種を植物学者•大賀一郎博士が発芽させることに成功。その蓮根を分けてもらって植えたものだそうです。その大賀ハスの写真がこちらです。↓

確かに、今まで見てきたハスより素朴で、古代っぽい美しさですよね✨
古代ハス園の奥には、美しい睡蓮の池もありました❣️
高台の東屋から睡蓮池を望む。広大で美しい公園🌳

こちらのハス園は初めて訪れたのですが、広大な敷地で、周囲も自然豊かで、非日常感を味わえました✨7月でしたが早朝に行ったので暑くはなく清々しかったです🍃お近くの方は是非、ハスの咲く時期に訪れてみて下さい🪷

さて、古代ハス園の北側には岩原古墳群と熊本県立装飾古墳館がありますので、そちらも軽くご紹介します。

岩原古墳群(国指定)

左奥に見えるのが、岩原古墳群の主墳•双子塚古墳

岩原古墳群は菊池川中流域を支配した豪族の墓で、主墳•双子塚古墳は、5世紀代に造られた県内最大級の前方後円墳です。(全長107m)ただ残念なことに、未調査のため詳しいことはわかってないようです💧

古墳時代は文字史料が殆ど無いので分からないことが多く、また、古墳も未調査だったり、盗掘されていたりして、材料が不十分な状態で考察(というか妄想)していかないといけないのでなかなか難しいですが、次回、肥後の古代を考えるシリーズ①〈菊池川流域編〉本編では菊池川下流域の江田船山古墳を主軸に話を展開していくつもりです💡(今回の記事はそのプロローグ的な位置付けになります。)

県立装飾古墳館

熊本県立装飾古墳館は、装飾古墳専門の博物館です。因みに装飾古墳とは、石棺や石室に彫刻や線刻、彩色により文様や絵画などの装飾を施した古墳になります。全国に849基、熊本県内では212基あり、全国の約25%が熊本に集中しています。装飾古墳館は安藤忠雄氏設計で、前方後円墳の形を模している壮大な建物なのですが、私としたことが写真を撮り忘れてしまいました💦なので、詳しくはこちらをご覧下さい↓

こちらで県下の装飾古墳について学んだ後、5キロ北にある県内で最も有名な装飾古墳である「チブサン古墳」に向かいました。🚗

② チブサン古墳(山鹿地区)

土日祝日の10時と14時に、チブサン古墳内部の見学が可能です。(100円)山鹿市立博物館へ事前予約が必要で、予約すると職員の方がチブサン古墳まで車で誘導してくれます☝️

山鹿市立博物館
チブサン古墳
後円部に石室があり、見学通路が設けられている。

で、肝心の石室内部の見学レポートなのですが、狭いわ、他のお客さんに気を使うわ、息苦しいわ(←入り口の扉は閉めないで下さいの意味わかった。)で、写真を撮るのを忘れてました💦もちろん、装飾古墳内部を自分の目で見るという貴重な経験が出来て良かったんですが👍ただ、写真を撮ってもガラスに反射して綺麗に撮れなさそうだし、ここは写真は諦めて現物をじっくり見るのが宜しいかと思います👀

というわけで、いつも通り現地解説板とレプリカにて詳細説明させて頂きますね💡

       チブサン古墳
 チブサン古墳は、長軸をほぼ東西に向けた前方後円墳です。墳丘の周囲は、古くから道路や開墾等で削られており、元の形から少し変形しています。
 周溝の確認調査の結果等からみると、本来の全長は55m以上と推定されます。斜面に築かれているため、やや不整形な平面形でありますが、周囲には周溝が巡らされています。北側のくびれ部には造出しが確認されています。
 埋葬施設は後円部にあり、南に入口のある複室の横穴式石室です。石室の全長は約6m、前室は約1.9m四方、後室は約3.6m四方の正方形です。
 側壁は、凝灰岩の割石がドーム状に積み上げられ、大きな一枚の天井石でふさかれています。このような、方形の平面形で、側壁がドーム状に積み上げられた石室は、熊本県を中心に分布しており、肥後型石室と呼ばれています。
 後室の奥壁沿いに石屋形があり、この部分に華麗な装飾紋様があります。この石屋形は、熊本県、福岡県に多いものです。
 装飾文様は、石屋形の左内壁に菱形文と円文、右内壁に円文と人物、奥壁に三角文•菱形文が描かれています。顔料は、赤・白・青の3色が使用されています。

 石屋形の奥壁右側にある同心円文を乳房にみたて、乳の神様として甘酒を供える信仰が近年までみられました。チブササンが転化してチブサンとなったといわれています。

解説板には書いてなかった重要な情報を捕捉しますと、このチブサン古墳は6世紀前半に造られた古墳になります。ここで問題です💡6世紀前半(500年代前半)といえば、九州では歴史の教科書にも載るような大きな事件が起きているのですが、皆さまはピンと来られましたでしょうか?答えは後ほどということで、最初にチブサン古墳のハイライト、装飾の施された石屋形の全体像をご覧ください。↓

画像は装飾古墳館ガイドブックより拝借。

まずは「石屋形」の説明から。石屋形は「石棺」が進化したもので、石棺の手前が開口したような形の遺骸安置施設になりまして、こんな風に使います。↓

同じく装飾古墳館ガイドブックより。因みにチブサン古墳では、被葬者や副葬品は江戸時代から既になかったもようです。

石屋形は、熊本県と福岡県南部で6世紀前半頃に流行した埋葬施設になります。そして石屋形には華麗な装飾が施されているのが特徴です。それではチブサン古墳の装飾紋様を、現地レプリカの写真で詳しく見ていきましょう☝️↓

まずはチブサン古墳の名前の由来にもなっている正面中央の同心円文から。確かに乳房にも見えますが、私は鏡(銅鏡)を表したものじゃないかと思います🤔古墳時代の初期(3〜4世紀頃)は実際鏡を副葬してましたので。まぁ、答えはこの壁画を描いた絵師さんに聞かないとわかりませんが😅

次に、右の壁に描かれた「王冠を被った人物」にご注目ください。装飾古墳館のリーフレットによると、この人物は古墳の主と考えられ、王冠は朝鮮半島南部の王冠とも共通する形で、両地域の交流が伺えるそうです。

そして最後に特筆したいのが三角文です💡装飾古墳の図柄は地域ごとに独自性があり、そこには豪族間の政治的な繋がりが伺えるのですが、この連続三角文を共通のシンボルとしたのが菊池川流域の豪族達なのです。🔺▼△
(※解説板にある菱形文は、三角文が繋がったものだと考えられています。)

因みに、連続三角文の図柄は(色や大きさ、その他の図柄との組み合わせ方は異なるものの)福岡県などの北部九州の古墳にも多用されています。菊池川流域は熊本県と福岡県の国境に近いため、古代は福岡県南部の筑後文化圏に属していたようですね〜🤔

ここで、私が熊本の古墳時代に興味を持つきっかけとなったISSAさんの記事を紹介させて頂きます。熊本県を中心に九州で流行した装飾古墳は大和政権のお膝元の畿内では全く流行らなかったのですが、近畿では「死者を隠す」文化、九州では「死者を見せる」文化という異なる死生観があったという興味深い説を書かれています。その他、チブサン古墳以外の装飾古墳の図柄なども紹介されていて楽しい記事なので、是非ご覧下さい🌟↓

それでは最後に、古墳周辺からの出土遺物を見てみましょう!↓

チブサン古墳横に展示してある出土遺物のレプリカ

はい、円筒埴輪と石人ですね☝️まずは例によって石人についての解説書を以下に引用します↓

         石人
 九州には、凝灰岩で人物、動物、器材等を造り、古墳に立て巡らしています。このような石製品を石人・石馬、あるいは石製装飾と呼んでいます。
 石製品をもつ古墳は全国で28例ほどで、福岡県、佐賀県、大分県、熊本県、宮崎県に27例を数えます。九州外では、鳥取県に1例があるにすぎません。そのうち、熊本県には15例ほどがあります。
 チブサン古墳の石人は、もとはくびれ部付近に立てられていたと伝えられますが、正確な位置は不明です。高さは約1.5m、最大幅は確定で80cmです。
 ヤッコ凧形をした簡略化された表現ですが、胴には短甲(よろい)を付けた武装石人で、古墳を守るために立てられたと考えられます。実物は東京国立博物館に保管されています。

※実物は現在は九州国立博物館にあるもよう。

例によって捕捉説明します!九州では埴輪とともに、阿蘇溶結凝灰岩で作った石人•石馬などの石製品を立てた古墳があります。因みに、ここ勘違いしやすいのですが、石人石馬は九州全体に広がる文化ではありません。解説板にある通り、九州内で石製品を伴う古墳は数にして27に過ぎず、有力な豪族のものとみられる古墳に立てられているものす。石製品を伴う古墳の数で上位3位のランキングは、肥後15基、筑後8基、豊後2基になります。そして、これら石製品を伴う古墳には政治的な結びつきがあると考えられています。

ここまで書くと、歴史好きの方は先の設問の答えはもうお分かりかと思います🤭大量の石人石馬を有することでもっとも有名な古墳は、福岡県南部(筑後地方)の八女古墳群にある、岩戸山古墳です。そしてこの岩戸山古墳は筑紫君磐井(つくしのきみいわい)の墓に比定されています。6世紀初めに九州で起こった大事件は、527年に磐井が大和政権に対して起こした「磐井の乱」になります。

日本書紀には磐井の乱について、大和政権が新羅に併合された朝鮮半島南部の地を奪還すべく西下させた官軍を、新羅の賄賂を受けた磐井が渡海阻止し、火•豊の勢力を動員して大和政権に戦いを宣言した。と書かれています。この火•豊というのがそれぞれのちの肥前肥後、豊前豊後になります。さっきの石人石馬の分布と重なりますね。当時、筑•豊•火の首長層の間には、筑紫君を盟主とする首長連合が形成されていたと考えられ、石人石馬は磐井連合を象徴するものとみられます。

因みに「火(肥)」の勢力は今ご紹介している菊池川流域の豪族とは別の人達です。菊池川流域はさっき述べたように、距離的に筑後文化圏なので、「火」と比べてより磐井に近い勢力だったと思われます。火の国、火の君については後の記事で取り上げます。

参考までに磐井の岩戸山古墳と菊池川流域の位置関係


さて、話はチブサン古墳の石人に戻りましょう。私はこの石人を見た時に、破損してなくて綺麗な石人さんだな〜と思いました。というのも、菊池川流域をはじめ、現存する石人石馬は大きく破損しているものが多いんですよね。筑後国風土記には、磐井の乱が鎮圧された後、石人石馬が大和政権軍によって叩き割られたことが記されています。↓

官軍、追い尋ぎて跡を失いき。土、怒やまず、石人の手を撃ち折り、石馬の頭を打ち堕しき。

『筑後国風土記』逸文より

実際、このチブサン古墳の近くにあり、石室構造などからチブサン古墳と近い関係にあるとみられる臼塚古墳には、頭部を失った(乱の際叩き落とされた?)巨大な石人が立っていました。この石人はその巨大さと威風堂々たる姿から、熊本県では1番有名な石人で、現物は熊本県立美術館の展示室に展示されています。↓

現存部の高さ1.5m、厚みのある量感溢れる逸品。
胴には短甲を付け、背には靫(矢筒)を背負う。

さて、そろそろ本散策記事のまとめに入りたいと思います。今回取り上げた肥後古代の森•鹿央地区と山鹿地区の古墳群(双子塚古墳、チブサン古墳、臼塚古墳)は菊池川中流域🟰山鹿盆地の古墳群になります。(山鹿市には今回紹介した古墳以外にもたくさんの古墳があります!)仮にこの菊池川中流域の勢力を山鹿勢力と呼ぶことにしますが、山鹿勢力はおそらく磐井の乱に際して磐井の側にたって戦ったと思われます。(論拠はまた次回、本編の肥後の古代を考える①〈菊池川流域編〉で書く予定です。)

え?でもチブサン古墳は前方後円墳だよね?前方後円墳って大和政権に認められた人の古墳じゃないの?だったら大和政権側につくはずだよね?って思われた方もいらっしゃるかもですが、磐井の墓も前方後円墳なんですよね。つまり、磐井の乱は、大和政権にとって土蜘蛛と呼ばれるような賊が起こした反乱ではなく、大和政権から認められた地方長官たる国造であった筑紫君磐井によって起こされた反乱です。なので大和政権としても一大事だったのですが😱

次回は熊本県でもっとも有名な古墳である江田船山古墳を取り上げます。江田船山古墳は磐井の乱の少し前、5世紀後半に作られた前方後円墳です。同古墳は、「天の下を治すワカタケル大王の世つかえ奉る典曹人名はムリテ」と銀象嵌された大刀(国宝)が出土したことで有名です。菊池川下流域🟰玉名平野を支配した江田船山古墳の被葬者と目されるムリテは、ワカタケル大王(雄略天皇)の権威のもと、我が世の春を謳歌したと思われますが、その後の継体天皇期に勃発した磐井の乱では、ムリテの後裔達はどう対処したのでしょうか?その後の律令期までの菊池川流域の勢力図の移り変わりを、限られた状況証拠から妄想してみたいと思います。宜しければ是非またご覧下さい❣️

菊池川流域のざっくり玉名、山鹿、菊池の勢力分布図

あとがきと本編のプロローグ

本記事作成のきっかけは、最初は古代の森のハスの花を見にいきたくて、そう言えば近くには有名なチブサン古墳と江田船山古墳があるな、ついでに立ち寄って合わせて記事にしよう!という軽い気持ちから始まりました。が、しかし、湧き上がってきた疑問点を色々調べていくうちに、熊本の古代史の謎にハマってしまい、シリーズ化する運びとなってしまいました。。
(本当は本記事も、ハスの花の旬な時期に間に合うようにアップしたかったのですが、参考文献を読んだり、肥後の古代を頭の中でシュミレーションしているうちに時は過ぎ、前回の更新からだいぶ時間が経ってしまいました🙇‍♀️)

10月の今頃から壮大なシリーズものに手を出してしまったので、年内に南北朝の史跡巡りシリーズに戻るのは厳しい状況になってしまいました💧南北朝シリーズを楽しみにして頂いている読者の方がいらっしゃったら大変申し訳ございません🙏ただ、肥後の南北朝時代を考える上で、肥後の古代を考えることは意味があると私は思っています。(←言い訳)なぜなら、南朝の後醍醐天皇が九州の南朝方として最も期待したのは肥後の菊池氏と阿蘇氏なのですが、そこには古代からの両氏と大和政権との繋がりがあったからだと思うからです。日本の古代史に造詣が深かった後醍醐天皇は、古事記、日本書紀にある「四道将軍」になぞらえて皇子達を日本各地に派遣したとも考えられており(森茂暁『懐良親王』p.27)、菊池、阿蘇両氏に対しても古代からの繋がりをもとに協力を要請したのではないかと思います。因みに北朝(武家方)についた少弐•大友•島津の九州三雄は、源頼朝によって鎌倉時代に所領を与えられて九州に下向してきた氏族です。そこら辺の各氏族の歴史が南朝•北朝(宮方、武家方)どっちにつくかを決めたのではないかと想像します💭

ということで、肥後の古代を考えるシリーズでは、平安期に菊池、阿蘇両氏が台頭してくる前段階まで描きだせたらいいなと考えています。(ざっくりとした構成しか浮かんでないので、できるかどうか分かりませんが。。)

なお、前述の通り、古墳時代は文字史料が殆どなく、正確なことは分かりません💧本編では、古墳や出土物などの限られた状況証拠と日本神話•伝承などを参考にし、参考文献中に書かれた仮説から自分が好きなものをピックアップして分からないところは想像で繋いだRoseの多分こうだったんじゃないか妄想ストーリーになることを御了承の上、お読み頂けますと幸いです😅

本シリーズに興味を持って頂けたらいいなという思いで、以下に今後の記事の予定を掲載します。(すべて仮題。また、構成詰めきれてないので回数や内容は変わる可能性あります。)

•肥後の古代を考える①〈菊池川流域編〉
江田船山古墳の被葬者ムリテ一族と磐井の乱…からの古代山城•鞠智城

→詳細予告は前述したので省略

肥後の古代を考える②〈宇土編1〉
宇土の赤の女王〜古墳時代前期の畿内型前方後円墳から向野田古墳
→熊本県内でもっとも早くに前方後円墳が作られたのは、宇土半島基部でした。早くから大和政権と繋がりを持った宇土の豪族は、不知火海沿岸を本拠地とした「火の君」の一族と目されます。この回では、古墳時代前期(4世紀後半)の前方後円墳から、火の君一族の美しき女王の墓•向野田古墳を取り上げます。

肥後の古代を考える③〈宇土編2〉
運ばれた馬門石石棺と直弧文〜宇土勢力(火の君一族)の台頭
→火の君一族と目される宇土の勢力は、菊池川流域とは全く異なる、直弧文と呼ばれる複雑で高度な幾何学文様をシンボルとし、石棺や古墳の壁画に描きました。この回では直弧文の魅力とともに、磐井の乱以降?(要確認)菊池川流域のムリテ一族から中央への石棺納品権を奪還した宇土勢力の謎と魅力に迫ります。

•肥後の古代を考える④
消えた火の君と阿蘇君の進出
→古代の肥後において隆盛を誇った火の君でしたが、平安時代を前にして史料に現れなくなります。そして火の君の支配地だった地域には阿蘇山周辺を拠点とする阿蘇君が奉戴する阿蘇神社の末社が建てられます。これが意味するものとは?(この回は全然つめきれてないので、いま大まかに考えている論理が破綻したら書けないかも💦)

以上です。なにぶん素人が仕事の合間に書いてる記事なので、面倒になったら匙を投げ出す可能性もあります笑 その際はごめんなさい🙇‍♀️

古代蓮園南側のヒマワリ畑。こっちも綺麗でしたよ🤩

最後までお読み頂きありがとうございました😊

【参考文献•WEBサイト】
•山鹿市『山鹿市史』2004年
•和水町『菊水町史 通史編』2007年
• 小田富士雄『磐井の乱』吉川弘文館 1991年
• 井上辰雄『火の国』学生社 1970年
• 森茂暁『懐良親王』ミネルヴァ書房  2019年
•山鹿市立博物館パンフレット
•熊本県立装飾古墳館ガイドブック及びリーフレット

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