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発達障害の息子の誕生日に思うこと。

六月五日は、息子の誕生日。

あの子の生まれた日は覚えている。
とても、暑い日だった。
その小さな命がこの先どうなるかなんて知らなかった。ただ、病院のベッドの上で「あ、これで母親になれる」と、心臓の奥で音がした。それだけだった。
「守ろう」
戦士が王に誓うように私は当然のように思えた。

それから数十年後の今。

今日も私は、いつものように背筋を伸ばして座っていた。コーヒーのカップを両手で包み、まだ湯気の立っているそれを一口飲む。この時間だけは、誰の母親でも、誰の妻でもない。ただ、一人の女として、朝の最初の苦みを味わう。それが私の、長年の習慣だった。

でも最近、コーヒーの味が昔より感じにくくなってきた気がする。老い。確実に老いというブランケットが、私をそっと包もうとしている。それは人生というものだと思う。抗うのではなく、ただそれと一緒に朝を迎えることを、私はもう覚えてしまった。

そっと、近くのテーブルを見る。

テーブルの上に、一冊の絵本が置いてある。

表紙には、黄色い生き物が描かれていた。いつかあの子と一緒に見た夕日の黄色さに、どこか似ていた。あれはいつのことだったろう。記憶の中の光の色と、この表紙の色が、静かに重なる。
タイトルは『よりみちが生まれた日』。先月、五月に出たばかりの絵本だ。作ったのは、今日誕生日を迎えるあの子だった。

私はページをゆっくりとめくった。一枚ずつ、丁寧に。見開きの絵の隅々まで目を走らせながら、この色はいったいどこから来たのだろう、と思う。あの子は子どものころから、知らない間にビー玉や木の実を集めてきては、自分だけの世界を作っていた。誰かに習ったわけでもなく、誰かに見せるわけでもなく、ただ黙々と。

「彼にしか見えない世界」

子どものあの子の絵を初めて見たとき、私はそう思った。その世界が今、一冊の絵本になっている。

絵本作家。
今ではそう呼ばれるようになったあの子が、ここまでたどり着くまでの年月を、私は朝の光とコーヒーと老いと一緒に回想する。

「発達障害」だとわかったのは、二十一歳

あの子が「発達障害」だとわかったのは、二十一歳のときだった。

診察室の椅子は、病院特有の固さがあった。私とあの子が並んで座り、医師が正面のデスクから淡々と話すのを聞いていた。私はずっと、窓の外を見ていた。電車が走っているのを覚えている。いつもならあの路線の走行音は聞こえるはずなのに、その日は聞こえなかった。じっと、「発達障害ですね。そして……」という医師の言葉だけが、一人芝居を耳だけで聞くように届いてきた。

驚かなかった、と言えばウソになる。でも私の心の秒針は、驚きよりも先に「腑に落ちる」にまっすぐ刺さっていた。

そうか、あれが。あの子どものころの、ずっと名前のなかった「何か」が。

あの子が幼かったころ、まだ「発達障害」という言葉は私たちの日常に届いていなかった。言葉そのものはどこかにあったのかもしれないが、少なくとも私の手の届く場所にはなかった。
「少し変わった子」「こだわりが強い子」「育てにくい子」
水で濡れた紙のようにぼやけた言葉だけが手元にあって、それで何とかあの子の形を捉えようとしていた。でも収まらなかった。いつも少し、はみ出ていた。名前のない違和感を抱えたまま、私は二十一年間、母親を続けてきた。

診察室を出て、二人で並んで歩きながら、あの子が言った。「なんかすっきりした」と。その言葉を聞いた瞬間、私は自分の中の何かがゆっくりと緩むのを感じた。二十一年間張り続けていた何かが。それが何だったのかは、今もうまく言葉にできない。

帰り道、二人でホットコーヒーを買った。少し冷めていた。一口飲んだ。あの子も飲んで、二人して変な顔をした。苦みが、あの日は少し深かった。

閉ざされたドアと、アクリルガッシュの夜

中学一年の秋ごろから、あの子はソワソワするようになった。
しかし、それは思春期特有のものだと思っていた。
しかし
アンタの辞書は間違っているよと言われたかのように
ちがった。

あの日のことは、今でも鮮明に覚えている。

パートへ向かう途中、財布を忘れたことに気づいた。駅まで歩いて五分のところで引き返した。ただそれだけのことだった。
玄関の鍵を開けながら、ふと思った。誰かがいる気配がする。あの子は今朝、ランドセルを背負って家を出たはずだった。空き巣か、と一瞬身が竦んだ。足音を殺してそっと廊下を進んだ。リビングの扉を細く開けると、そこにいたのはあの子だった。

ソファの上に体育座りして、膝に顎を乗せていた。テレビもつけず、ただそこにいた。私の気配に気づいたあの子が、顔を上げた。その目の色を、私はうまく言葉にできない。怯えているわけでもなく、開き直っているわけでもなかった。ただ、ひどく疲れた色をしていた。

私の喉が、何かを言おうとして止まった。
問い詰めたかった。
「なぜ嘘をついた?なぜ隠れていた?学校はどうした?」
そういう言葉が、口の手前まで来て、出られなかった。
いや、出してはいけない。
出したら彼はいなくなってしまう。
そんな母親の感だけが働いた。
結局、「元気ならよし」と言ってあげた。
大人になって彼から言われた。
「学校から連絡があったはずだ」と。
当たり前だ、連絡はあった。
でも私が知りたかったのはそういうことではない。
あの瞬間、もし私が声を荒げていたら、もし正論を叩きつけていたら、あの子はどうなっていたのだろう。その問いに今も答えられない。
ただ一つだけ言えるのは、私が何かに押しとどめられるようにして黙ったあの瞬間は、理性ではなかったということだ。
理性よりもずっと深い場所からきた、母親の感と書いたが語弊がある。
それはハッキリ言う。
動物としての本能に近い何かだ。

高校生になってから、あの子は別の顔を見せ始めた。

急に外の世界へ向かうエネルギーが爆発し始めた、という感じだった。
「こんな人に会った」「こんな場所がいった」と目を輝かせて話すようになった。
中学時代の、あの閉ざされた静けさが嘘のような変わり方だった。
私は安堵しながら、しかし同時にどこか怖かった。振り子が大きく振れるとき、その反動もまた大きい。それを知っていたから。

夜遅く帰ってくることも増えた。友達の車で遠出しているのだという。どこへ、誰と、何時に帰ると聞いても「大丈夫大丈夫」と軽く笑って出ていく。私はリビングの薄明かりの中で時計の針を目で追い続けた。十一時。十二時。廊下の外を通る車のヘッドライトがカーテンの隙間から差し込んでは消える。あれじゃない。あれでもない。あの子の乗った車がうちの前に止まる音がするまで、私は眠れなかった。いや、寝ているふりをしていた。
彼を心配させたくなった。

彼は就職した。そして「うつ」になった。
ワゴンセールのように一気に物語が進んだ気がした。

「消えたい!」
彼は部屋から叫んだ。
それと同時に
ドンッ
何かが壁に叩きつけられる鈍い音。
私は立ち上がり、廊下に出た。
ドアの向こうで何かが砕ける音。
低く唸るような声。規則性のない足音。
けもの?
いや、息子だ。
息子がいるはずの部屋のドアノブに手をかけて止まった。
開けるべきか。開けて、あの子の目と目が合ったとき
私には何が言えるのか。何も言えない気がした。言葉を探しているうちに、また何かが落ちる音がして、私はただ廊下の暗がりに立ち尽くした。
自分は無力だ。
長年母親をやってきたなのに
なんでもっと彼のうつに気がつかなかったんだろう?
自分の首を自分でしめたくなったが
私は戦士。
息子と向き合う戦士だと自分に言い聞かせた。

ふと疲れて寝ていた。
シュシュ
微かに、絵を描く音が聞こえてくる。筆が画用紙を擦る音。
水入れに筆を突っ込むときの、チャプという小さな水音。アクリルガッシュのチューブを絞り出す、くぐもった音。
それが深夜に、狂ったような速さで続く。
私はリビングのソファに座って、その音をただ聞いていた。
声をかけたかった。
でも声をかければ、あの集中が壊れる。
壊れたとき、また嵐が来るかもしれない。
私は息を潜めて、壁の向こうの音を守るように、じっと座っていた。
部屋の中ではきっと、アクリルガッシュの鼻をつく匂いが充満していただろう。その匂いが、ドアの隙間からかすかに漏れてくる気がした。

後から知ったことだが、あの子はあの時期、知らないうちにマネージャーを見つけて絵のコンペに作品を出していた。そして賞を取っていた。
一度は、私に「絵の道具を捨てたい」ってMacを捨てたはずなのに
いつの間にか、また絵を描いていた。
私には一言も言わなかった。受賞通知のメールを、あの子がこっそり確認しているのを偶然見てしまったとき、私は動けなくなった。
画面を見つめるあの子の横顔。その表情が読めなかった。喜んでいるのか、ただ確認しているだけなのか。私にはわからなかった。ただ、この子には私の知らない世界がある、ということだけ。それは彼の絵の世界と同じに感じた。でも、目の前に生きている彼がいるだけ、

私は安心した。

白い布の前での誓い

余命宣告の夫が逝ったのは、あの子のうつがいちばん深かった時期と重なった。
当然。
難病でどうしょうなく
人生の無常さを感じた。いや、まわりに言われた。
「アンタだけ、難病にもうつにもならないね?
アンタが、旦那さんと息子を虐待しているじゃないの?」
今なら、短絡的なAIの回答みたいだと思ったかもしれない。
でも、当時は私の体を矢がささった。

夫の葬儀場の空気は、張り詰めていた。線香の煙が天井に向かって細く立ち上り、時間が止まったような静けさだった。白い布の夫を前に彼は
「今日はき、来てくださり、あ、ありがとうございます」
喪主挨拶をしてくれた。
私の胸が熱くなった。

あの子がどこにいるか、ずっと気になっていた。

夜が更けて、式場に人がまばらになったころ、私はあの子が棺の前に一人でいるのを見つけた。
うつの時期で寝たり起きたりと運動がすることがなく、体重が増えてぷっくらした彼はまるで、王の前にいる大柄な衛兵に見えた。しかし、近づくと、衛兵のその肩が激しく震えているのがわかった。
「ごめんよ、厄介者のオレだけ生きているなんて、ごめんよ」
詫びる息子。その声は徐々に嗚咽になった。
私もその嗚咽を聞いて体がどうにかなってしまいそうだった。

しばらくして、あの子がゆっくりと顔を上げた。目が真っ赤で、頬に涙の痕が乾きかけていた。そしてあの子は、私を見て、口を開いた。それまでのどの声とも違う声だった。甘えや弱さをすべて削ぎ落としたような、あるいは、そういうものを持っていたことへの羞恥が一瞬で燃え尽きたような、地底から這い上がってきた声だった。

「母さん、オレをなんとかする」

私は何も言えなかった。その言葉が何を意味するのか、あの子自身にもわかってない。しかし、そこには新しい彼がいた。


その日を境に、あの子の部屋から音が消えた。

筆が画用紙を擦る音がしなくなった。水入れのチャプという音がしなくなった。アクリルガッシュの匂いが廊下に漂ってくることもなくなった。部屋に立てかけてあったスケッチブックが、ある朝から見えなくなっていた。絵の具のチューブが、筆が、少しずつ姿を消した。タンスの引き出しを開ける音がして、閉まる音がした。それだけだった。私には何も言わなかった。私も何も聞かなかった。

夢を、しまっている。

その後ろ姿を見ながら、私はそう思った。誰かのために、自分の夢を封印しようとしている。それが正しいことなのかどうか、私にはわからなかった。止める言葉も持っていなかった。ただ、タンスの引き出しが閉まる音だけが、耳の奥に長く残り続けた。


初めての給与と、小さなお祝い

タンスに夢をしまったあの子は、現実の足音に向き合い始めた。

最初は、福祉施設への通所だった。
職歴のないあの子が社会に踏み出すための、最初の一歩。
施設の担当者と面談するとき、私も同席した。
担当者が丁寧に説明してくれる内容を、あの子は真剣な顔で聞いていた。
膝の上で両手を組んでいた。終わったあと、彼の手から血が出ていた。爪が彼の手に食い込んでいた。彼はそれほどまで緊張していたのだ。
ムリしないでと言った。
でも、「大丈夫」と彼は自分の手を見ずに空を見ていた。

施設での日々は、地味なものだった。毎朝決まった時間に起き、決まった電車に乗り、決まったプログラムをこなす。それだけのことが、あの子にとっては大きな変化だった。最初の一週間は疲弊しきって帰ってきた。「もう無理かも」とつぶやいたこともある。私は黙って夕飯を出した。「食べたくない」と食べれない日もあった。
それでも、ひたすら温かいものを出す方が、あのときは正解だったと思う。

それでもあの子は通い続けた。一ヶ月、二ヶ月、三ヶ月。少しずつ、少しずつ。担当者から「よく頑張っています」と電話が来たとき、私はトイレに駆け込んで泣いた。誰にも見せない涙を流すのに、長いことトイレを使ってきた気がする。

障害者雇用での就職が決まったのは、それからしばらく後のことだった。採用通知の紙を手に帰ってきたあの子は、「母さん、受かったよ」とだけ言った。声は平静だったが、手がかすかに震えていた。私も「そう、よかったね」とだけ言った。その夜、二人で食卓を囲んで、特に何も話さなかった。でもその沈黙が、いちばん豊かな時間だったと思う。


初任給の日に、あの子が「外食に連れてく」と言った。

連れて行ってもらったのは、駅前のレストラン。
チェーンでも名店でもない、どこにでもある、本当に普通の店。
引き戸を開けると、フツーの匂いがした。テーブル席に向かい合わせに座り、ラミネートのメニューを広げた。あの子がメニューを見ていた。私も見ていた。他に何か言うことのない、ただの食事だった。

でも私は、注文したものが運ばれてくるまでの時間、胸の中が静かに波立っていた。他の人にとっては何でもないことだ。親に飯をおごる、ただそれだけのことだ。
でも
私たちにとって、この「ただそれだけ」が、どれほど遠くにあったか。
「消えたい」と叫んでいた、あの子が。

今日、私の向かいに座って、メニューを見ている。
その事実の重さを、私は誰にも言えなかった。

食事が終わって、あの子が会計を済ませて席に戻ってきた。
そして私に向き直った。

「ごめんね、こんなことしかできなくて。」

私は心臓が止まった気がした。
こんなことしかできない、なんて。この子は何を言っているのだろう。
あの嵐の夜々を越えて、タンスに夢をしまって、毎朝電車に乗って、ここまで来た。それを「こんなこと」と呼ぶのか。私は何も言えなかった。ただ、目の奥が熱くなるのを悟られないように、視線を少しずらした。
そして、帰りにホットコーヒーを買って二人で飲みながら帰った。
その温かさだけが、喉の奥まで確かに届いた。

タンスを、もう一度開けるとき

それから、何年が経った。

彼の病気が始まった。
「海外で個展をやりたい」と。

「またか」と思った。
心の中だけで。口には出さなかった。
でも今回は、以前とは少し違う言い方だった。
向こう知らずの無謀さではなく、地面に足をつけたまま空を見ている、そういう声だった。
それから数年後の2026年
一月。
彼は商業作家として
自伝を出した。
『発達障害のよりみちが、それでも生きる理由。』
さらに
先月の五月には
絵本が出た。
今朝テーブルに置いてある、あの『よりみちが生まれた日』だ。

ここ数年、ヒヤヒヤしていた。
彼に、「調子をどう?」
「なんとかなる」って言うけど
彼の貯金通帳が、見るたびにスカスカになっていくのをコッソリ見て知っていた。
準備のために使っているのだという。
私は心配しながら、でもそれ以上に何かを感じていた。
タンスの引き出しが、また開いている。
あの日しまい込んだはずの夢が、また外へ向かおうとしている。
止める言葉がなかった。止めたくもなかった。

人は、一度しまった夢をもう一度取り出せるのだろうか。
私にはわからない。
でも今のあの子を見ていると、できるとかできないとかは関係ないのかもしれない、と思う。取り出さずにはいられない人間がいる。ただそれだけのことなのかもしれない。

今日は、あの子の誕生日。
コーヒーが、少し冷めてきた。
テーブルの上の絵本が、朝の光の中にある。
いつも忙しいって言う彼を捕まえて誕生日のご馳走をあのレストランで食べようと思っている。

——これは、私の母の話です。

……想像、です。
私がこの文章を書きました。
母の目になって、母の心になって。なぜなら、聞けないから。

今でも聞けないんです。母に、あの時代のことを、直接聞くことが。

私が今日、この文章を書いた理由

私の名前はよりみちといいます。
絵本を作ったり、文章を書いたりしています。今日は私の誕生日です。

中学生のとき、母に言いました。
「母さん、オレ、作家になる」と。
そのときの母の顔を、私は今でも覚えています。
笑ってくれたけど、目が笑っていなかった。あの目の奥にあったものが何だったのか、当時の私には読めなかった。今ならわかる気がします。希望と、恐怖と、途方のなさが、全部あの目に入っていた。あの宣言を聞いた母の胸の中を、私は想像することしかできない。

二十一歳で「発達障害」と診断されたとき、母と二人で診察室に座っていました。帰り道に「なんかすっきりした」と言ったとき、母は笑ってくれた。でも二十一年間、名前のないまま抱えてきたあの時間が、母の中でどれほどの重さだったか。あの日の診察室で、母が窓の外をずっと見ていた理由が、私にはまだわからない。

うつの時代、私は母をどれだけ傷つけたでしょう。夜中に叫んで、モノを投げて、消えたいと言い続けた。母が廊下に立っていることを、私は知っていました。
気配でわかった。でもドアを開ける勇気がなかった。
母に助けを求める言葉を、持っていなかった。だから絵を描き続けた。アクリルガッシュのチューブを絞り出して、水彩で色を重ねて、あの鼻をつく絵の具の匂いの中に潜り込むことだけが、あの頃の私にできる唯一の呼吸でした。言葉にできないものを、筆が代わりに吸い取ってくれた。

父が逝ったとき、私は何かが自分の中でぶち切れる音を聞きました。甘えていられない、という音ではなく、それまで甘えていたことへの羞恥が一瞬で燃え尽きる音でした。「母さん、オレをなんとかする」と言ったとき、それが本当にできるかどうかなんてわかっていなかった。ただ、あの言葉を言わなければ、私はそこで終わっていた気がします。


初任給の日に「ごめんね」と言ったとき、母は何も言わなかった。
あのときの母の横顔が、私の中にずっとあります。
謝ったのは、本当に申し訳なかったから。
だけど、あの「ごめんね」の中には、それだけじゃないものが混じっていた気がします。
詫びです。
人生の半世紀の詫び。
それが
全部、あの四文字に入っていた。

では、なぜ今日この文章を書いたのか。

それには、一つの理由があります。

母には最近、少しずつ忘れることが増えました。
まだ、少ないけど
どこに何を置いたかわからなくなることがある。
それは老いというものの、静かな人生という摂理。
表では凛とした姿勢でコーヒーを飲んでいる。
でも、確実に、何かが少しずつ薄れていく。

そんな母に、私が「あの時代のことを聞かせてほしい」と言ったとしたら、それは何を意味するでしょうか。

純粋な疑問の形をした「矢」を、母の胸に射かけることに他ならない。
あの廊下の暗がりに、あの嵐の時代。
白い布の前に、母をもう一度連れ戻そうとする暴挙だと。
私にはそんなことはできない。
だから絶対に、直接は聞けない。

だから想像した。五感で、想像した。

朝のコーヒーの苦み
廊下に立つ母の、足音を殺した息遣い。
アクリルガッシュで絵を描いていた時の近くの母を。

聞けないすべてを、五感で想像することが
今の私にできる唯一の「聞くこと」な気がした。
それがワガママなかもしれない。
でも

今だからこそ
商業作家になって
自伝を出し、絵本を出した今だからこそ
書かないといけないと思った。

中学生のとき「作家になる」と言った。
その約束を、今まさにこの文章で証明した。
嵐の時代をよりみちして
タンスに夢をしまった者が
障害者雇用の先に
タンスを開けた。
いい年だから
とあきらめることもできたのに。
また取り出して、ここまで来た。
母へのいちばんの返事が、これだと思うから。


今日は、私の誕生日です。

産んでくれてありがとう。

それしか、言えない。

#創作大賞2026
#エッセイ部門

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