日タイハーフのオレが三島由紀夫を嫌う理由
一言で言うと「精神科医のせい」である。しかし、三島由紀夫の問題点は、日本人全体の問題点にも通ずると思っている。
筆者のこと
三島のことを語る前に、まず、筆者のことを語らせてほしい。筆者は2000年生まれの男性──いわゆるZ世代──であり、普段は日本人に混ざって暮らしているが、母親はタイ人である。住んでいた場所は、主に東京と茨城である。
筆者は子供の頃、とても純粋な性格だった。ある時、お母さんがヒヨコの形にくり抜いたご飯を弁当に入れてくれたのだが、当時幼稚園児だった筆者は、「ヒヨコがかわいそうだから」と言って、そのご飯を残してしまった。とても微笑ましいエピソードである。
筆者はその頃、自分がタイ人と日本人のハーフであることに何の疑問も持っていなかった。多くの日本人は、自分自身の民族的アイデンティティや、他の民族との違いについて、深く考えこまないだろう(少なくとも、平成の東京ではそれが主流だった)。いわば「誰でもない者(ギリシャ語で言うとウーティス)として、薄い自意識でみんなと一緒に過ごす、平和で穏やかな日本人」である。だから筆者は、「自分はたまたまタイ人の母親から生まれただけで、ほとんど日本人だ」という考え方をしていた。
ところが、筆者の父親はかなり問題のある人物だった。
・暴力、暴言、性的虐待をしたり、酒を飲ませてくる。
・暴力については「暴力は良くない。しかし、これは戦争と同じ。言葉でダメなら殴るしかない」と言ってくる。
・筆者がベッドで寝てる時に、隣の部屋で怒鳴り散らし、一方的に母を殴り続ける。
・悪事について問われると「酔ってたから覚えてない」とか「それは過去のことだ」と言ってくるが、すぐ繰り返す。
・「お前はタイ人なのか日本人なのか。父親の言うことが聞けないならタイに行け」 と言ってくる。
・やたらと家系の話をしてくる(茨城の戦国大名だった)。
・「お前は曽祖父と同じような天才なんだから、公務員かサラリーマンになれ」と言いながら、別の時には「お前はそんな事もできないのか!?そんなんでサラリーマンになれると思ってんのか!?」と言ってくる。
・父はやたら口が上手く、警察や教師さえも味方につける。結果として、東京や茨城の地域社会は、表向きは父親を批判しながらも、実際にはそれを容認しているように見えた。児童相談所の職員も含めて。
こういった経緯から、筆者は「理想としては純粋で優しい人格になりたいし、そのように振る舞って信頼される時もあるが、同時に、ひどく感情的になってトラブルを起こすこともある」という、複雑な性格になった。しかし、日本の人々があまりにも『二重人格』で『自己矛盾』的なので、こちらもそうなってしまうのである。
精神科医から言われたこと
2016年頃、筆者は父と2人で暮らしていた。ある時、筆者は父と一緒に、秋葉原の心療内科に行った。そこの医者は、こんなことを言った。
「漫画家を目指すのは『遊び』。父の言う通り、サラリーマンになるべき」
「流行りのアニメなんか見てないで、三島由紀夫みたいな文豪の本を読むべき」
なぜそんな事を言われたのか分からないが、当時の筆者はかなりムカムカした。そもそも当時の筆者は、流行りのアニメなどチェックしていない。当時はせいぜい、『ジョジョ』シリーズを追いかける程度で、他の流行りもの(異世界系、ラノベ系、日常系)に関しては、まったく興味が湧かなかった。そして、『三島由紀夫』という人物についてはよく知らなかったが、「筆者の夢は『遊び』で、三島という文豪は『お手本』である」という構図に腹がたった。その後、三島が小綺麗な人物ではなく、民兵組織を連れてクーデターを起こし、派手に自害した男であることを知ると、「オレは犯罪者じゃないのに、なぜ三島より格下として扱われるの?」と、余計腹が立った。
筆者の病名は、それを診断する医者ごとに大きく変わる。例えば筆者が最初にかかった精神科医は(筆者が父からの虐待について打ち明けたにも関わらず)『ASDとADHD』という診断を下した。秋葉原の精神科医は、筆者のことを「発達障害ではなく、『思春期精神症』である」と断定し、新宿の病院では『非定型うつ』と診断された。今、筆者がいる病院ではどんな診断になっているか、もう忘れたが、たぶん『複雑性PTSD』と言われてたような気がする。
余談だが、筆者は、精神医学が丸ごとインチキだとは思わないし、『統合失調症』や『普通のうつ病』に対しては投薬治療が必要だと思っている。しかし、トラウマと発達障害については、どこの医者もインチキ同然だと思う。
日本人ではない誰か
20代を過ぎて、筆者は、「誰でもない日本人」ではなく「日本人ではない誰か」としてのアイデンティティを確立しつつあった。確かに筆者は、みそ汁をすすればホッとするし、桜を見ればキレイだと思うが、筆者にはタイ人の血が流れているのである。「日本人の心を持っているなら日本人だ」と言ってくれる人もいるが、逆に言えば「日本人の考え方に調和できないなら、生まれた場所から出ていってくれ」と言っているも同然である(もちろん、本人にそのつもりはないだろうが、いざとなれば冷酷になり、それを平気で正当化するのが日本人である)。ましてや、日本人の心というのは、存外おぞましいものである。「恥を知るという心があるからこそ、都合の悪いを隠す」とか「日本人は文化に寛容だと言いながら、実際にはあれこれ理由をつけて余所の文化を否定する」とか、「ウソをつくことを『本音と建前』という文化として、まるで誇らしいことのように言う」とか、そんなもんである。筆者は、そういった風習に同意した覚えはない。
三島に関しても同様である。ああいう、口ばかり『男らしさ』を説いて、実際には女々しく、やたらと過激な感じの人物は、筆者の世界には必要ない。
デクスター・デチャの三島論
筆者は、三島の本をほとんど読めていないが(三島の本を読もうとすると体が動かなくなるので)、彼の思想については、かなり多面的に論じる必要があると思う。
例えば、「三島は愛国者ではなく、ニヒリストだ」とか「三島の本物の仏教ではなく、ニヒリズムだ」という馬鹿げた論評がある。筆者の考えは逆である。
「戦時中の日本においては、愛国主義も、日本仏教も、ニヒリズム同然だった」
それは、個々人の人生の価値をやたらと低く見積もって、その空虚さを埋めるために、神仏だの、天皇だの、国家だの、アジア解放だのと、『自己より大きい価値』を持ち出しているだけ。三島と何も変わらないのだ。むしろ、三島の狂気じみた美学が、日本文化の影の側面を克明に映し出したからこそ、人々はそれを「ニヒリズムだ」と言って、日本文化の本質から切り離したがるのではなかろうか。だが、「毎日ご飯を食べて、みそ汁を飲みたいな」という平和な想いと、「散りゆく桜は美しい。いっそ桜のように散りたい」という、積極的なニヒリズムは、明らかに日本人の共通感覚であろう。
それから、三島が天皇をやたらと理想化して、「2.26事件の首謀者たちを許すべきだった。その方が雅(みやび)だった」とか「天皇は革命の原動力になり得る。もし全共闘が一言『天皇』と言ってくれさえしたら協力できた」とさえ言ったこと。
まず、天皇は人間である。心がある。「反乱が起きて、側近が殺された!激おこ!だけど許すよ☆」とはならないだろう。まして、それが『雅』というのも極端な話である。今のタイみたいに、しょっちゅうクーデターが起こる国もあるけど、そういうのが雅かというと……うーん……三島視点では雅なのかな。
それに、2.26事件は『天皇の存在を原動力とする革命運動』だったかもしれないが、東大全共闘みたいな共産主義と、天皇崇拝は、さすがに相性が悪い。逆に東大全共闘から「三島さんが一言『スターリン』と言ってくれば……」と言われたら、三島は共産主義者に協力するのか?(しないだろう)。
ちなみに筆者なら、「右翼と左翼の共通シンボルになりそうなものと言えば、将門の方がよくね?」と思う。昭和天皇と違って、自分で戦場に出てるし。朝敵だけど、皇居の近くに神として祀られてるし。武士だし。男らしいし。庶民の味方で、平安の革命戦士みたいなもんだし。三島は拒否感を示すかもしれないが、かなり面白い選択肢になったはずだ。ただ、東大全共闘のバカどもには、そういう知識とセンスはなかったみたいだ。残念。
ジャイナ教と八百万 〜『豊饒の海』を乗り越えるカギ〜
それから、三島の遺作である『豊饒の海』について調べてみたが、あの作品の結末が「仏教の名を借りたニヒリズ厶」になっているとしたら、それは三島のせいではない。それは仏教の問題であり、唯識説の理論的な欠陥が原因だと思う。つまり、唯識説は他者性を否定しているわけではないが、他者の実在に関する記述が弱いのである。これは日本人の心理とも通ずる部分があると思うが、話がややこしくなるので割愛。
そもそも唯識説は、「心が世界を作る。人間の心の深層にある、阿頼耶識(あらやしき)という部分が、この世界を作っている」という考え方である。だから、「自分の執着や思い込みがこの世界を作っているとしたら、他者の存在も幻なのか?」という話になる。
おそらく三島的には、「日本人が、戦中と戦後でまるっきり別の考え方になってしまったこと」が許せず、一方で、「自分の考える『日本人の在るべき姿』も、所詮は思い込みなのではないか」といった形で自己疑念があり、それを描くためのモチーフが『唯識説』だったのだと思う。
プロのお坊さんであれば「いやいや、他人どころか、自分そのものが幻なんですよ。落ち着いてください」と言うだろうが、筆者は異なる意見がある。それは、「阿頼耶識を単一の霊的原理と考えるのではなく、無数の霊的原理として考え直したら、唯識説をアップデートできるのではないか」という事なのだが、AIに聞いてみたら、「それは仏教というよりジャイナ教に近いかもしれない」と言われた。ジャイナ教というのは、仏教と同時期に生まれた宗教である。その世界観は「宇宙は無数の生命に満ちていて、それらの魂は溶け合うことがなく、それぞれの一生や、カルマによって制限を受けながらも、本来は無限の知恵を持ち、永遠不滅の魂として存在する」というものである。つまり、「自分や他人の魂は幻ではなく、実在する」という世界観である。なおかつ、ジャイナ教では「我々に見えるのは真理の一側面だけであり、どんな視点もある意味では正しい」という『多面主義』の伝統を持つ。つまり、三島の視点も、お坊さんの視点も、天皇の視点も、一般的的な日本人の視点も、それぞれ、ある意味では正しいということで、『現実か、幻か』という二元論を捨て去ることができる。
『無数の生命』と言えば、日本人としては『八百万の神々』という概念が想起されるだろう。それは日本の文化の中核とも言えるだろう。ただ、筆者としては非常に問題視するところがある。それは「八百万の神々を本気で信じているなら、なぜ、『天皇』が必要不可欠なのか」ということである。
八百万の神々と言っても色々あるが、筆者は特に、将門のファンである。ファンというか「天皇はどうでもいい。将門こそが真の王者であり、最強の日本人であり、オレはその将門に反逆したい」という、かなりヤバい考えを持っているのだが、一応本気である。
将門塚が皇居のご近所にあるのはもちろんのこと、将門の故郷である茨城県では『國王神社』という神社さえ建てられている。國王神社では、将門こそが国王なのである。そういう、神道の懐の深さを考えると、天皇を唯一神の如く崇める(あるいはキリストの如く崇める)という文化には、ますます疑問が湧く。
あるいは、自然界の存在はどうだろうか。例えばアマテラスは太陽の女神であるが、天皇がいなくなっても太陽は輝く。それを日本文化の象徴とすることは、ダメなのか?あるいは、これといって特徴のない、空虚な庭だとか、夏の風とか、セミとか、そういったものを信じることはそんなに難しいか?
現代日本人は、「神社には行くし、クリスマスは祝うけど、本気では信じていない。宗教ガチ勢を見ると引いちゃうことさえある」という人が多いけれど、昔の日本人も同レベルなのだ。
「全てのものには神様が宿ってるんだ」と、口では言いながら、実際には、天皇だとか、国だとか、お金だとか、人間中心主義だとか、そういった価値を信じることしかできない、哀れな日本人の性質がそこにある。
結論。三島由紀夫より、鈴木光司?
三島のよくない部分の一つは、彼が「真に国家や人々のことを考えた」というよりは、「自分の美学と魂のために死んだように見える」というところだ。
言い換えると、アンパンマンでもウルトラマンでもなく、アキレウスって感じ(←変な例えでごめん)
アキレウスはギリシャの英雄で、「平穏に長生きするくらいなら、命を燃やして戦士として死ぬぜ!」という男である。良くも悪くも感情的で、筆者としては感情移入しづらいキャラクターだ。三島は『アキレウス的な生き様』を理想としていたように見える。
秋葉原の精神科医は、「三島のような文豪の本を読め」と言ったが、三島から何を学べるというのか。障害者に破滅願望を植え付けるようなマネは、遠慮していただきたいものである。
近頃、『リング』の作者である鈴木光司氏が亡くなった。筆者はちょうど、彼の小説に興味を持っていたところであり、非常に残念である。そんな鈴木光司は、実は三島由紀夫とは正反対の人物だったらしい。
まず、三島が家族を遺して死んだのに対し、鈴木氏は主夫として子供を育てながら、天寿をまっとうしている。また、三島が『男らしさ』にこだわり、女々しい情緒に囚われながら、現実の女性をdisりまくったのに対し、鈴木氏は「マッチョを極めればフェミニズムに行きつく」と言っているらしい。
そんなわけで、筆者は反日主義者ではあるが、個別の日本人には個別の評価をしたい。筆者の父のような『女子供を殴る父親』とか、三島のような『女々しいサムライもどき』は、とても人生の手本にはならない。しかし、鈴木氏の作品と考え方は、筆者のこれからの人生に、良縁をもたらしてくれるような気がする。
p.s.
筆者は結構ジョジョラーなのだが、三島由紀夫の作品について調べるうちに、「これってジョジョの元ネタかも」と思えてきた。さらなる考察のためには、『豊饒の海』を読まなくてはならない。そう、『覚悟』を決めて……。
