「プラーナ:その栄光と救済力/その20」/シャンカラ註解『ブリハッド・アーラニャカ・ウパニシャッド』(Br.1.3.27)
はじめに
今節の格言は、短いながらも神の聖なる息吹としてのプラーナの象徴たるサーマンの支え、つまり、何を依拠しているのか知る者について説いているのだが、さて、シャンカラ師は私たちにどのような註解を示すのであろうか?
『ブリハッド・アーラニャカ・ウパニシャッド』第一篇第三章二十七節
第一篇 蜜篇 第三章 プラーナ:その栄光と救済力
二十七節 このサーマン(生命力)の支えを知る者は安息の地を得る。言葉(体の特定の部位)こそがまさにその支えである。なぜならば、このように詠唱される生命力は言葉に支えられているからである。ある者は、食物(体)に支えられていると言う。
□シャンカラ註解
第二十七節の註解
同様に、生命力のもう一つの特徴、すなわち、その支えについての瞑想を命じるために、聖典の格言は次のように述べている。「このサーマンの支え、すなわち、サーマンが依拠する言葉をする者は、安息の地を得る。結果は瞑想の内容と見事に合致している」なぜならば、シュルティ(天啓聖典)は「人は彼について瞑想する通りになる」(Ś. X. v. 2. 20)と述べているからである。
前述の格言において注解した通りに、結果について言及されそれを聞いて関心を惹かれ、その支えとは何であるのかを知りたいと願う者に対して、聖典の格言は「言葉こそがまさにサーマンの支えである」と述べている。
ここでの「言葉」とは、舌の付け根などのさまざまな体の部位を意味し、それらが支えとなるのである。このことは次のように説明されている。このように詠唱される生命力は、言葉、すなわち、舌の付け根などの体の部位に依拠して詠唱の形をとるからである。
したがって、言葉はサーマンの支えなのである。ある者は、食物に依拠して詠唱されると言うのだが、生命力が食事に依拠していると言うこともまた適切だろう。後者の見解もまた何らの問題がないために、人は自身の選択により、言葉か食物のいずれかを生命力の支えとして瞑想すべきである。
聖典の簡略表記について
Ś:シャタパタ・ブラーフマナ
□デーラダナンダ註解
おそらくだが、たぶん以下のようなことなのだろう。
「神」の生命→その生命の息吹たるプラーナ(生命力)→サーマン(旋律/讃歌)→言葉→舌の付け根
このように、「神」の生命が末端の舌の付け根まで延長されているとすると
大元たる「神」の生命の源泉へと到達するために、舌の根から発する言葉の詠唱をしつつ、かつ、「神」の生命について想う瞑想(ウパーサナ)についての註解なのかも知れない。
そして、最後に、シャンカラ師は、肉体を維持する「食物」をプラーナの物理的な拠り所とする見解があることを認めつつも、言葉によって讃歌を詠唱するサーマンにおいて、直接的に、「生命」の源たる「神」を讃える「言葉(発語器官)」を「神」との結び付きの支点として、または、始点として、瞑想することを命じている。
最後に
「舌の根の乾かぬうちに」という慣用句があります。意味として、言葉を言い終わるか終わらないかのうちに、すぐにそれと矛盾するような言動をとる様子を言い表しています。
この「舌の根」が「神」そのものに結びつくという『ウパニシャッド』の考え、もしくは、古の聖仙や賢者の想うことは凄いなと想いつつ…
このことを知ってしまったのならば、今から直ちに、「舌の根」から発する言葉を「死」に直結するものではなく、「生命」の源たる「神」へと結び付くものとなるように、改めていこうとコミット(決意)しました。
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