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「プラーナ:その栄光と救済力/その18」/シャンカラ註解『ブリハッド・アーラニャカ・ウパニシャッド』(Br.1.3.25)


はじめに

プラーナ(生命力)を讃える格言の中で、サーマン(讃歌)の「富」が声の調子すなわち音調(音色)であると説かれていることを、シャンカラ師はどのような註解として私たちに教えるのだろうか?

『ブリハッド・アーラニャカ・ウパニシャッド』第一篇第三章二十五節

第一篇 蜜篇 第三章 プラーナ:その栄光と救済力

二十五節 このサーマン(生命力)の富を知る者は富を得る。実のところ、その富こそがまさに音調(音色)である。したがって、詠唱者として祭祀を執り行う者は、豊かな音調(音色)の響きを望むべきであり、その優れた美しい音調(音色)の声で司祭としての務めを果たすべきである。ゆえに、祭祀の場において、人々は富める者を求めるように、良い声を持つ司祭を求めるのである。サーマンの富がそのようなものであると知る者は、富を得るのである。

□シャンカラ註解

第二十五節の註解

ここで、「サーマン」という言葉で示され、口の中に宿るものとして指摘(考察)されている「生命力」すなわちこの「サーマン」の富を知る者には何が起こるのだろうか?

彼は富を得るのである。聖典は、その結果を言及して聴き手の関心を惹きつけた上で、次のように説くのだ。「音調(音色)こそがその富であると説きます。「音調(音色)」とは、声の美しさ、すなわち、富や装飾を意味している。なぜならば、優れた音調(音色)を伴う詠唱は、壮麗なものとして響くからである。

このような理由から、司祭、すなわち詠唱者として務める者は、その音調(音色)によってサーマンを豊かにするために、豊かな音調(音色)を持つことを望むべきなのである。

このことは、付随的な教え(戒律)である。というのも、もしも、詠唱者と同一視される生命力がサーマンの持つ性質を通じて「良い音調(音色)」を備えるものとして実現されるべきであるとしても、単に望むだけではそれは達成されないからである。

したがって、歯を磨いたり油を口に含んだりするといった適切な手段を講じるべきであることが、暗に示唆されているのだ。そして、彼は、その磨かれた(鍛錬された)優れた音調(音色)の声で、司祭としての務めを果たすべきである。

音調(音色)はサーマンの富であり、サーマンは音調(音色)によって美しく飾られるものであるからこそ、人々は、祭祀の場において、富める人を求めるのと同様に、良い声を持つ司祭を求めるのである。

富める者に会いたいと人々が望むことは、周知の事実である。生命力のこの特性に関する瞑想の結果は、すでに述べられた通りですが、結論として改めてこのように繰り返されます。「サーマンの富がそのようなものであると知る者は、富を得るだろう」

□デーラダナンダ註解

シャンカラ師は註解において、瞑想の結果つまり果報への動機づけとして、「富を知る者は富を得る」という文脈について、「瞑想を行う者に『果報(phala)』を提示して奨励し、聖典の教えに耳を傾けるように促している」ことが推論できる。

ここにおいての「富」について、他の注解には現実の財産だとしているものがあるようだが、私はブラーフマンの「智識」こそが豊かさそのものである「富」であり「栄光」であり、「大いなるすべて」であると解釈している。

というのは、無智さを原因とした知覚対象となる財産など比べようがないほどに微々たるものだからである。

最後に

ダルシャナ(質疑応答)

【問い】:(Br.1.3.22)のダルシャナにてあなた(デーラナンダ)は、下記のように答えました。

もしも、その翻訳が完全にブラーフマンの智識に基づいたものであるのならば、この世界の終わりとは、破壊されることではなく、神々の世界へとその智識に沿ったものとして翻訳されることではないでしょうか?つまり、この世界の再解釈によって、すべての知覚が智識へと転移されることで、この世界が貴方の視界から消え去ることだとしたらどうでしょうか?

(Br.1.3.22)においての「最後に」から引用

仮に、あなたの言う通りだとしましょう。無智さに覆われた個我は、まさしく、自らが知覚する通りの世界を造り出したとして、最終的に、すべての知覚が智識へと転移され私の視界からこの世界が消え去るのだとしたら、この今もなお見えているこの世界とは何なのでしょうか?

【答え】:もうすでに、そのことについて問いを立てた時点ですでに答えは出ているのですがいかがでしょうか?

【問い】:おっしゃっている意味がわかりません。わからないからこそ質問しているのです。

【答え】:そこまで至っているのならば、わずかな疑念がありながらもすでに回答は得ているとは思いますけれども…

端的に言うのならば、この世界とは、貴方を主なる至高神であるブラーフマンとの合一に至るための教育の仕組みとして、迷妄なる仮想世界ながらも存在しているとしたらどうでしょうか?

無智さに覆われて隠されたもの、つまり、恐れと共に解釈し隠してしまったものを再解釈して見い出すまでの教育資材もしくは教材としての世界だとしたらどうでしょうか?

例えば、この世界が他の国の言葉だとして、貴方はこれが他国の言語なのでうまく適応して翻訳することができず、間違った解釈を繰り返すことで苦しんで、なかなか、この世界という教育課題を未修のまま輪廻という再履修を繰り返しているとします。

再履修を繰り返す私たちの誰もが、恐ろしいと知覚するあらゆるものを再解釈し正しく状況において適切に翻訳することができるれば、愛あるものだけが真実であることを学び、この世界を卒業できるとしたらどうでしょうか?

【問い】:私は仮説のままでその仮説を生活の中で実証していなかったことに気づかせていただきました。ですので、この答えを参考にさせていただき、再度疑念を払拭できるように瞑想しその瞑想で得たことを実践しまた熟考していきたいと思います。ありがとうございます。

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