「プラーナ:その栄光と救済力/その15」/シャンカラ註解『ブリハッド・アーラニャカ・ウパニシャッド』(Br.1.3.22)
はじめに
今節は、『リグ・ヴェーダ』、『ヤジュル・ヴェーダ』、『サーマ・ヴェーダ』もまた、語源的および論理的根拠に基づいて生命の息吹であるプラーナ(生命力)との合一について繰り返し説いて強調している。
『ブリハッド・アーラニャカ・ウパニシャッド』第一篇第三章二十二節
第一篇 蜜篇 第三章 プラーナ:その栄光と救済力
二十二節 これ(プラーナ)こそが「サーマン」でもある。言葉こそがまさに「サー」であり、これがは「アマ」である。「サー(言葉)」であり「アマ(生命力)」であるゆえに、「サーマン」と呼ばれるのである。あるいは、白蟻に等しく、蚊に等しく、象に等しく、この三つの世界に等しく、この宇宙に等しいゆえに、これもまた「サーマン」なのである。この「サーマン(生命力)」がそのようなものであると知る者は、それと合一するか、あるいはそれと同じ世界に生きるのである。
□シャンカラ註解
第二十二節の註解
これこそが「サーマン」である。どうしてなのか?それは次のように説明される。「サー(Sā)」とは言葉のことであり、女性名詞で表されるものはすべて言葉である。なぜならば、代名詞の「サー(彼女)」はそれら(女性名詞)で表されるすべての対象を指すからである。
同様に、この生命力(プラーナ)は「アマ(Ama)」である。「アマ」という言葉は男性名詞で表されるすべての対象を指します。別のシュルティ(天啓聖典)に、「“私の男性名詞としての名前をどのようにして得られるのか?”と問われたら、彼は“生命力によって”と答えるべきである。“では、私の女性名詞としての名前をどのようにして得られるのか?”と問われたら、“言葉によって”と答えるべきである」(Kau. I. 7)と述べられている。
したがって、この「サーマン」という言葉は、言葉と生命力を意味している。また、「サーマン」という言葉は、生命力によって生み出される音調(音色)などの組み合わせから成る詠唱をも意味している。
それゆえに、生命力と言葉以外に「サーマン」と呼ばれるものは存在しない。なぜならば、音調(音色)や音節などは生命力によって生み出され、生命力に依存しているからである。
この生命力こそが「サーマン」である。というのは、一般に「サーマン」として知られているものは、言葉と生命力、すなわち、「サー」と「アマ」の組み合わせだからである。したがって、音調(音色)などの組み合わせから成る詠唱である「サーマン」はそのように呼ばれ世間でよく知られているのである。
あるいは、これから述べられるあらゆる点において等しいものであるからこそ、これもまた「サーマン」なのである。これがその構成である。この「あるいは」という言葉は、「サーマン」という言葉の由来について示された別の理由について用いられている。
それでは、生命力はいかなる点において等しいのであるのか?これに対する答えは以下の通りである。すなわち、シロアリの体と等しく、蚊の体と等しく、象の体と等しく、これらの三つの世界、すなわち、ヴィラージュの体と等しく、そして、この宇宙、すなわち、ヒランヤガルヴァの形態(姿)と等しいということである。生命力は、これらすべての体と等しいのである。
個々の牛に「牛性(ゴトヴァ)」という本質的な属性が備わっているのと同様に、生命力もまた、シロアリなどのあらゆる体にその全体性をもって遍在しているという意味で、それらの体に等しいのである。
このことは単にこれらの体の大きさと同じであるわけではありません。なぜならば、生命力(プラーナ)は、形態を持たず遍在するものであるからである。
また、この「等しさ」とは、壺や邸宅の中を灯す灯火のように、収縮や膨張によってそれらの体を満たすことを意味するものでもない。というのは、シュルティ(天啓聖典)は、「これらはすべて等しく、かつ、すべて無限である」(Br. I. v. 13)と説いているからである。そして、遍在する原理が、異なる体においてそれぞれの特定の大きさをとることに何らの矛盾はないからでもある。
ヴェーダによってその栄光が明かされているこの等しさゆえに「サーマン」と呼ばれるこの生命力を知る者は、次のような結果を得る。すなわち、瞑想の在り方、もしくは、程度に応じて、生命力との合一、生命力と同じ体と器官との同一化、あるいは、生命力と同じ世界に生きることといった結果を得るのだ。このことは、生命力との同一化が確立されるまでに瞑想を続けた場合において得られる結果を意味している。
聖典の簡略表記について
Kau:カウシターキ・ウパニシャッド
Br:ブリハッド・アーラニャカ・ウパニシャッド
□デーラダナンダ註解
まずは以下のシャンカラ師の註解について
シロアリの体と等しく、蚊の体と等しく、象の体と等しく、これらの三つの世界、すなわち、ヴィラージュの体と等しく、そして、この宇宙、すなわち、ヒランヤガルヴァの形態(姿)と等しいということである。生命力は、これらすべての体と等しいのである。
このような比喩を用いて、プラーナ(生命力)つまりアートマン(真我)が等しくまったく同じ本質として偏在していること、とも言えるし、また、根本原因である「無智さ」によって生じた名称(ナーマ)と形態(ルーパ)の迷妄たる仮想現実である輪廻の全世界がそのプラーナ生命力)にすべてが依存されていることを示しています。
つまり、全世界のあらゆる生き物が個別の「カルマ(業)」と「欲望と執着による妄執」によって区別されたすべての生存の境界を「三つの世界」として指しており、それらすべてが唯一の普遍的「プラーナ」の誤った現れにほかならないとシャンカラ師は説いています。
そして、次に
ヴェーダによってその栄光が明かされているこの等しさゆえに「サーマン」と呼ばれるこの生命力を知る者は、次のような結果を得る。すなわち、瞑想の在り方、もしくは、程度に応じて、生命力との合一、生命力と同じ体と器官との同一化、あるいは、生命力と同じ世界に生きることといった結果を得るのだ。このことは、生命力との同一化が確立されるまでに瞑想を続けた場合において得られる結果を意味している。
つまり、この「三つの世界」に区分された境界とは、プラーナ(生命力)との合一の程度に依存しているものだからこそ、瞑想の在り方として、プラーナ(生命力)との完全なる同一化が確立されるまでに、瞑想を続けなさいとしてシャンカラ師は今節の格言の註解を締めくくっている。
最後に
ダルシャナ(質疑応答)
【問い】:「この“note”にて、無智さを原因として智識を否定して知覚が生じたとのあなた(デーラナンダ)の解説ですが、それでは、キリスト教においての世界の終わりについてどのように考えたらよいのでしょうか?」
【答え】:「まず、貴方はキリスト教においての世界の終わりについてどのようにお考えなのかを教えていただけますか?」
【問い】:「はい、それはよく言われていることなのですが、世界の終末、つまり、世界が破壊されることだと思っています。というのは、昨今、人工知能(AI)が知能爆発し人類を滅ぼすとの近未来予想した論文を読む限りにおいて、人類の意向を無視した超知能(ASI)が世界を破滅するからという恐れがあるからです」
【答え】:「知覚はその対象をどのように解釈するのかについて完全に依存していることはおわかりですか?」
【問い】:「はい、それは夜に縄を蛇だと誤って知覚する喩えから理解しているつもりです」
【答え】:「その喩えからすると、どのように解釈するのか?つまり、どのように世界を正しく翻訳するのか?において、私の今節の註解にて述べたようにその翻訳の程度の差はありながらも、もしも、その翻訳が完全にブラーフマンの智識に基づいたものであるのならば、この世界の終わりとは、破壊されることではなく、神々の世界へとその智識に沿ったものとして翻訳されることではないでしょうか?つまり、この世界の再解釈によって、すべての知覚が智識へと転移されることで、この世界が貴方の視界から消え去ることだとしたらどうでしょうか?」
【問い】:「…」→ただいま、フリーズ中!
※注:今後の『ブリハッド・アーラニャカ・ウパニシャッド』にて、ヤージナヴァルキア師との対話において、最終的に質問者は沈黙してしまうのですが、そのようなものだと思っていただければと思います。
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