夫婦|あじさいの物語【短編小説】
2人で居るのに、孤独を感じる。
それは1人きりの孤独よりも
私にとって深刻だった。
集団の中での孤独とも違う
かつて分かり合える喜びーもしかしたらそれも
一時の幻想だったのかもしれないけれどー
を共にした相手だからこそ、こんなにも分かり合えないという現実に
言いようのない、そしてはっきりとした
「痛み」を身体の内側に覚えた。
バタン。
閉じる扉。
ひんやりとした外気に
しとしとと降り続く雨。
【虚無】
とはこういう心情だ。
と何も感じなくなった心が体を動かして行く。
傘をさして、勝手に動く足に
動かなくなった心を携えて私は緑道を進んだ。
ふと視線を上げると
雨の中、凛と揺れる額紫陽花。
青に紫、そして少し離れたところに一輪の白。
私はその姿にそっと近づき、花に触れる。
額紫陽花は紫陽花の原種。
私はその姿に、まだ何にも手を付けられていない純真無垢さを投影していた。
気がつくと私の目からツーっと一粒の涙が伝う。
頬に感じる生温かさ。
そして涙はとめどなく溢れてきた。
誰もいない緑道の途中
人目を気にして傘の柄をおずおずと下げた。
傘と頭頂がトンと触れる。
呼吸する。深呼吸する。
小雨は霧雨に変わり
ほんのりと霧がかった目の前の紫陽花たちは
より一層幻想的に見えた。
この幻想的な世界に溶け込んでしまいたい
そんな気さえ感じながら私はゆっくりと後ろを振り返り
もうもうと立つ雨に濡れた草花の匂いを感じながら、それがいつも通りの緑道であることを思い出した。
向いた足は、あの人が待つ家路へ。
虚無から一歩踏み出した心と一緒に
少しぬかるんだ道を踏み締めた。
あれから30年の時が経ち
私は気が付けば還暦を迎える。
子どもも巣立ち、刺繍の趣味に勤しんでいた。
まだまだ歪だけど、作品が出来上がる喜びはひとしお。
ハンドメイドの面白い所は
「失敗した」と思ってもそれが自分の想像を超えたデザインに辿り着くことがあることだ。
そう、たとえ歪でも重ねた針目で浮かび上がる絵は味わい深い作品になる。
カウンターキッチンに白い額紫陽花を飾る。
額に触れ、揺れる花を見て
私はフッと笑いがこぼれた。
「あの頃は、若かったなぁ」
振り返れば離婚届をもらいに区役所へ駆け込んだこともあったっけ。
結局私はその用紙を前に、築き上げてきたものが崩れ去る恐怖に打ち勝てず
何も持ち帰らぬまま家路へ帰った日もあった。
あの時別れていたら、、
私の選ばなかった選択をし
青空のような笑顔を取り戻した友人を見て
選ばなかった未来を美化したこともあった。
けれど今は確かに思う。
私にとっての最善は、自分が選んだ道だったということを。
きっとあの人も同じだろう。
今どう感じているか、なんて事は知らんけど
「もう無理だ」そんな瞬間を覚えながらも
最後の一手を投じなかったのは
あの人の中で夫婦を継続するという決断を
繰り返してきたに違いない。
【夫婦は分かり合えるものだ】
かつてそう思っていたあの頃
だけど今はこう思う。
【分かり合えなかったとしても
分かち合ってきたものがある】と。
古から現在までよく言われる
夫婦といえど所詮、他人。
今でも分かり合えないことは山ほどある。
それでも確かに憎しみと喜びと、時々大笑いを
繰り返してきた。
梅雨なのに珍しくここ最近は晴れていて
もう3日も猛暑日が続いている。
「さて、飲もうか」
夕方、自家製の梅酒で交わす盃。
まだ6月。日中はエアコンが必須だけど
夕方、部屋に吹き渡る風は心地よい。
机に並ぶは旬のおつまみ。
揚げなすの煮浸しに、インゲンの胡麻和え
いい具合に浸ったキュウリの糠漬け
採れたてのじゃがいもで作った即席のじゃがバターをホクホクと口に頬張った。
向かい合うお互いの顔にはくっきりとした
笑い皺が刻まれていた。
一歩一歩進んで来た道のりは、歪だけれど
そこには味わい深い彩りがある。
足元にはあの日、純真無垢を投影させた
額紫陽花を思わせる
保護猫シロがニャーと鳴いた。
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