西周(にしあまね) 拙者の履歴書【幕末編】 Vol.35~東西の知を架け渡す~
この「拙者の履歴書」は、日経新聞の名物コラム「私の履歴書」をもしも幕末の人物が書き記したら、という空想企画です。
第35弾は、西周(にしあまね)。本人と一緒に、彼の人生を振り返ってみましょう。
※出身地の方言を使った話し方に馴染みがある場合もありますが、今回は標準語を基準に掲載しています。
幕末から明治にかけて、西洋思想の導入に尽力し、日本の近代化に貢献した知の巨人・西周。「哲学」「論理学」など、現代の日本人が日常的に使用する学術用語の多くを創案した人物としても知られる。津和野藩出身の彼は、幕末にオランダ留学を経験し、明治政府の高官として活躍。本稿では、西周自身の視点から、激動の時代を生き抜いた知識人の軌跡をたどる。
一、石見国津和野に生まれて
私は文政12年(1829年)旧暦2月28日、石見国津和野藩(現在の島根県鹿足郡津和野町)に生まれた。父・西重正(諸説あり)は津和野藩士であったが、家柄としては中級から下級に属する身分であった。幼い頃から学問への関心が強く、藩校や家庭で漢籍・儒学などの基礎教育を受けた。
津和野は小藩ながら学問を重んじる土地柄で、私もその恩恵を受けた一人であった。剣術や槍術などの武芸も学んだが、どちらかといえば書物に向かう時間の方が長かったように思う。同世代の藩士子弟の中でも学力に秀でていたと周囲から言われ、それが私の自信となっていた。
思えば、この小さな藩での学びが、後の私の人生を方向づけることになった。藩校での厳しい学問の手ほどきは、後年西洋の複雑な思想や概念と格闘する際の基礎となったのである。
二、黒船の衝撃と洋学への目覚め
嘉永6年(1853年)、ペリー率いる黒船が浦賀に来航した時、私は24歳であった。この出来事は日本全国に大きな衝撃を与え、津和野藩も例外ではなかった。諸外国の事情を知る必要性が急速に高まり、それまでの漢学だけでなく、洋学(蘭学)の習得も重視されるようになった。
当時の私は、単なる藩士としての道を歩むことに疑問を感じ始めていた。世界はあまりにも広く、知るべきことはあまりにも多い。そのような焦燥感に駆られるなか、外国の言葉や思想を学ぶ機会を強く望むようになった。
安政4年(1857年)、念願かなって藩命により江戸へ遊学することとなった。28歳の時である。江戸では幕府の洋学教育機関が整備されており、そこで学ぶことが私の夢であった。実際、間もなく幕府直轄の蕃書調所(後に洋書調所・蕃書和解御用など名称変更)に出仕し、翻訳や西洋事情の調査研究に携わるようになった。
この時期、オランダ語(蘭語)を中心に、英語やフランス語、ドイツ語にも関心を持ち始めた。言葉を学ぶということは、単に外国語を習得するだけでなく、その背後にある思想や文化を理解することでもある。私はそれを肌で感じながら、日々の研究に没頭した。
三、海を越える決断 - オランダ留学
文久2年(1862年)、33歳の時、私の人生を大きく変える出来事が起きた。幕府の海外留学生としてオランダ留学を命じられたのである。同僚の津田真道や他の留学生とともに、未知の世界へと旅立つことになった。
当時、日本人が海外に留学することは極めて珍しく、危険や政治的リスクも伴った。しかし、私にとってはこれ以上ない好機であった。欧米の法制度や軍事技術、外交手法を学ぶことで、日本の将来に貢献したいという思いに満ちていた。
オランダのライデン大学では、法学・政治学・経済学・国際法・道徳哲学などを学んだ。言葉の壁に苦しみながらも、当時オランダで有力だった経済学者・法学者らから薫陶を受け、西洋近代思想の基礎を身につけていった。オランダ語だけでなく、ラテン語・フランス語なども必要とされ、まさに寝食を忘れての勉強であった。
文化の違いに戸惑うことも多かった。例えば、西洋人は議論が好きで、教授の言うことにも遠慮なく反論する。日本では考えられない光景に最初は驚いたが、次第にその自由な学問の雰囲気に魅了されていった。そして、単に西洋の知識を吸収するだけでなく、日本の伝統と西洋の思想をどう融合させるかという課題を意識するようになった。
四、帰国と激動の時代を生きる
慶応元年(1865年)、36歳で日本に帰国した。幕府の命での留学だったため、帰国後は幕府要職での活躍を期待されていた。蕃書調所などで洋学・法制・外交関連の翻訳や講義を行い、蘭書や洋書の整理・解説にあたった。
しかし、国内情勢は日々激変していた。慶応3年(1867年)には大政奉還が行われ、私が仕えていた幕府体制が崩壊へと向かった。徳川慶喜の下、外交・法制整備に関わるが、国内政情不安により十分に成果を上げる前に幕府そのものが瓦解の道を辿った。
明治元年(1868年)、39歳の時に明治新政府が成立した。戊辰戦争など国内が混乱する中、私は旧幕臣の立場でありながらも、維新後の法制・外交に携われる人材として新政府にも出仕する道を模索した。幸い、新政府は能力ある人材を広く登用する方針を取っており、私もその一人として迎えられることになった。
この時期、心の中には複雑な思いがあった。主君と仰いだ幕府は滅び、新たな時代が始まる。しかし、日本という国の発展のためには、私の持つ知識が必要とされている。個人的な感情よりも国家の行く末を優先すべきだと考え、新政府への出仕を決意したのである。
五、近代日本の基礎を築く
明治2年(1869年)以降、東京(旧江戸)で新政府のもと、欧州の法制度や教育制度を取り入れる作業に参画した。版籍奉還と廃藩置県が行われる中、中央政府内での役職を得て活動した。
明治4年(1871年)の廃藩置県により、私も津和野藩士の身分を完全に離れ、新政府の官僚として本格的に活動することになった。文部省・司法省などで欧米法制を調査・翻訳する事務に従事しながら、教育制度改革にも意見を述べた。
この時期、私が最も力を入れたのは、西洋の概念を日本語に翻訳する作業であった。「哲学」「倫理学」「論理学」「主観/客観」など、今日では当たり前に使われている言葉の多くは、この時期に同僚の津田真道や西村茂樹らとともに創案したものである。
例えば「哲学」という言葉。西洋の"philosophy"をどう訳すべきか、私たちは何日も議論を重ねた。「希哲学」「愛智学」などの案も出たが、最終的に中国の古典に由来する「哲学」という言葉を採用することにした。西洋の新しい学問を東洋の古典に見出された言葉で表現するという、文化の架け橋を意識した選択であった。
翻訳は単なる言葉の置き換えではない。文化や思想の伝達であり、新しい時代を築く基礎となるものだと信じていた。
六、明六社と啓蒙活動
明治6年(1873年)、44歳の時、明六社(めいろくしゃ)の設立に参加した。森有礼、福沢諭吉、津田真道、西村茂樹、加藤弘之らと共に啓蒙活動を行い、『明六雑誌』に論考を寄稿した。
明六社での活動は、私にとって非常に充実したものであった。政府の仕事とは別に、広く一般に向けて西洋思想を紹介し、日本の近代化を後押しする論説を発表することができた。
特に印象に残っているのは、「知説」という論考である。これは西洋哲学における「知識とは何か」という認識論を日本に紹介したものだが、単なる翻訳ではなく、日本人の思考様式に合わせて再構成した。また「百一新論」で西村茂樹が革新の重要性を説いたように、私も西洋思想の紹介を通じて日本の進むべき道を模索した。
明六社の同人たちとの議論は、時に激しくなることもあった。例えば、西洋化をどこまで推し進めるべきか、日本の伝統とどう調和させるべきかという点で、意見の相違もあった。しかし、そうした議論の中から、より深い理解が生まれたと思う。同志である西村茂樹が「百学連環」で西洋の学問体系を総合的に紹介したように、私も東西の知恵を融合させた新しい思想の構築を目指していた。
この時期、私は西洋の知識を吸収しながらも、日本独自の道を模索していた。単なる西洋の模倣ではなく、東西の知恵を融合させた新しい思想の構築を目指していたのである。
七、立憲主義と近代法制度
明治7年(1874年)、民選議院設立建白書が提出され、自由民権運動が盛り上がり始めた。私も法制・議会制度の必要性を説く一人として、政府部内外で議論に参加した。
オランダ留学で学んだ立憲主義や議会政治の知識を活かして意見を述べたが、一方で急激な改革には慎重な姿勢も示した。日本の伝統や現状を無視した急進的な変革は、かえって混乱を招く恐れがあると考えていたからである。
明治8年(1875年)から明治12年(1879年)にかけて、太政官制度の改革や地方官制の整備などに伴い、各省の官僚として翻訳・調査・立案に携わった。政府の法制顧問・教育顧問的な役割を担いながら、日本の近代化の基礎づくりに貢献した。
私の立場は、常に現実的かつ折衷的であった。西洋の制度や思想をそのまま移植するのではなく、日本の風土や文化に合わせて改良する必要があると考えていた。同時に、古い因習や迷信に囚われることなく、合理的な判断で改革を進めるべきだとも主張した。これは、東西の知恵を調和させるという私の基本姿勢の表れであった。
八、教育制度と国民の啓蒙
明治5年(1872年)の学制発布に先立ち、私は教育制度や学校設置に関する欧米制度の調査・翻訳を行った。同僚の津田真道や田中不二麿、森有礼らとともに、近代教育に関わる概念の日本語訳を検討し、新しい教育システムの構築に貢献した。
教育は国の礎であり、強い国家を築くには国民全体の知的水準を高める必要がある。これは、オランダ留学中に強く実感したことであった。西洋諸国の繁栄は、高い教育水準に支えられていたのである。
私は自らの論考や翻訳を通じて、学問と教育の重要性を繰り返し説いた。真の近代化とは、単に外見を変えることではなく、人々の思考様式や知識の基盤を変革することにある。そのためには体系的な教育制度が不可欠であった。
当時の日本は、「和魂洋才」(日本の精神と西洋の技術)という言葉に象徴されるように、精神面では日本的なものを保ちつつ、技術面では西洋に学ぶという姿勢が強かった。しかし私は、精神と技術は本来切り離せないものだと考えていた。西洋の技術を本当に理解し、活用するためには、その背後にある思想や文化も理解する必要があるのである。
九、晩年と思想的深化
明治23年(1890年)、大日本帝国憲法に基づき初の帝国議会が開設された。私が導入に尽力した西洋の法制度や思想が、日本社会に根づいていく様子を目の当たりにする機会となった。
晩年の私は、官界を徐々に退き、後進の育成や著述に専念するようになった。そして、ますます東西思想の融合という課題に取り組んだ。単に西洋思想を紹介するだけでなく、日本の伝統や儒教的倫理観との融合を模索する姿勢を強めていった。
例えば、「性学」(今日の倫理学に相当)においては、カントやミルなどの西洋倫理学を紹介しながらも、儒教の「仁義礼智信」といった概念との関連性を指摘した。東洋の知恵と西洋の知恵は、互いに補完し合うことができると考えていたのである。
当時の私の考えを一言で表すなら、「批判的受容」であったと思う。西洋の思想や制度を無批判に受け入れるのではなく、また頑なに拒絶するのでもなく、その本質を理解した上で日本の文脈に適応させること。それが私の目指した道であった。
明治30年(1897年)1月30日(1月26日説もあり)、私は67歳でこの世を去った。振り返れば、私の一生は「知の橋渡し役」としての人生であった。東洋と西洋、伝統と革新、理論と実践の間に橋を架け、日本の近代化に寄与できたことを、心から幸せに思う。
後書き
西周という人物は、幕末から明治にかけての激動期に、日本の知的基盤を形作った重要な知識人の一人である。「哲学」「論理学」「主観/客観」など、現代日本人が日常的に使用する学術用語の多くを創案した功績は特筆に値する。
東西の知的交流の架け橋となった西周の業績は、当時の日本にとって計り知れない価値があった。彼の翻訳と著述活動がなければ、明治期の近代化はより困難を極めたことだろう。しかし、その重要性にもかかわらず、西周の名前は福沢諭吉や森有礼ほどには一般に知られていない。
彼の中庸を重んじる姿勢、東西文化の調和を目指す思想は、グローバル化が進む現代日本にとっても示唆に富んでいる。異なる文化や思想を理解し、自国の伝統と融合させていくという西周の基本姿勢は、今日のわれわれにも大きな教訓を与えてくれるだろう。
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