大野治長(おおの はるなが) 拙者の履歴書 Vol.107~淀殿の乳母子、豊臣家最後の交渉役~
この「拙者の履歴書」は、日経新聞の名物コラム「私の履歴書」をもしも戦国武将が書き記したら、という空想企画です。
第107弾は、大野治長(おおの はるなが)本人と一緒に、彼の人生を振り返ってみましょう。
大野治長。永禄十二年(一五六九年)頃の生まれと伝わり、慶長二十年(一六一五年)五月八日、大坂城山里曲輪にて豊臣秀頼公・淀殿とともに自害した。享年四十七。修理亮、のちに修理大夫を称したゆえ、世には「大野修理」の名で知られる。母は淀殿の乳母を務めた大蔵卿局。すなわち治長は淀殿の乳母子であり、その縁こそが彼を引き上げ、彼を苦しめ、そして最後に彼を死なせた。後世は彼を「淀殿にとり入った佞臣」「豊臣を滅ぼした無能」と語ってきたが、近年の研究は、その像を大きく描き改めつつある。
一、乳母子として
拙者、大野治長は永禄十二年(一五六九年)の頃、尾張国葉栗郡大野村に生まれたと伝わる。父は大野定長、佐渡守を名乗った。もっとも拙者の生国を丹後の大野村とする言い伝えもあり、いずれが正しいか、拙者自身の口からも定かには申せぬ。のちに丹後大野の地を所領として賜ったことが、話を取り違えさせたのやもしれぬ。
わが生涯を決めたのは、父よりも母であった。母・大蔵卿局は、浅井備前守長政公とお市の方の間に生まれし長女、茶々様の乳母を務めておられた。乳母の子は、乳を分けた兄妹のごとき間柄となる。世にこれを乳母子と申す。すなわち拙者は、幼き日より茶々様のお側にあった。
小谷の城が落ち、越前北ノ庄の城が落ち、茶々様が二度までも父母を失われるという苛烈な歳月を、拙者ら大野の一族がいかに過ごしたか、確かな記録は残っておらぬ。ただ、母の膝の下で、拙者と茶々様が同じ年頃の子として育ったこと、それだけは間違いない。
「治長、そなたはあの姫様の弟のようなものじゃ」
母がそう申したかどうか、今は覚えておらぬ。だが拙者の四十七年は、結局その一言を生きたようなものであった。
二、馬廻の列に
天正十六年(一五八八年)の頃であろうか、茶々様が関白秀吉様のお側に上がられた。それに前後して、拙者も秀吉様の馬廻衆に列したものと思われる。
翌天正十七年(一五八九年)、拙者は和泉国佐野と丹後国大野をあわせて一万石を拝領した。これは拙者の武功によるものではない。父母の勤めに報いる形での加増であり、しかも茶々様が鶴松様をお産みになった年のことである。拙者の立身が何によって支えられていたか、拙者はよく承知しておった。
「大野修理亮」の名が確かな書き付けに現れるのは、天正十九年(一五九一年)十一月、秀吉様が三河吉良へ鷹狩に出向かれた折の随兵の記録が最初である。翌文禄元年(一五九二年)、唐入りの陣触れに従い肥前名護屋の城に在陣した。文禄三年(一五九四年)には伏見城の普請を分担した。
華々しき先陣の話は、拙者にはない。城を築き、行列に従い、御用を承る。それが拙者の武辺であった。かわりに拙者は筆を磨き、茶の湯を古田織部様に学んだ。使者に立ち、礼を尽くし、話をまとめる。後年の役目は、すべてここから始まっておった。
慶長三年(一五九八年)八月、秀吉様が薨去された。拙者は遺物として金子十五枚を賜った。ただそれだけの記録である。だが天下は、その日から音を立てて傾き始めた。
三、結城への道
慶長四年(一五九九年)、拙者は秀頼様に伺候し、詰衆二番之組の筆頭を仰せつかった。若君のお側近く、まことに身に余る役目であった。
だがその年の九月、拙者の身に思いもよらぬ嫌疑がかかった。重陽の賀に大坂城へ登られる内府・徳川家康公を、前田利長殿を首謀として討ち奉る企てがあり、拙者もその一味であるという。増田長盛殿の密告によるものであった。
拙者に覚えはない。だが弁明の場は与えられなかった。十月、沙汰が下った。浅野長政殿は武蔵府中にて蟄居、土方雄久殿は常陸の佐竹義宣殿へお預け、そして拙者は下総の結城秀康殿のもとへ流された。母・大蔵卿局までもが大坂を追われた。
「母上まで巻き添えにするとは……」
この企てがまことにあったのか、今もって定かではない。後の世の学者は、内府が前田家と反徳川の者どもを一挙に片づけ、大坂城西の丸へ入る口実に用いた作り事であろうと申しておる。げに、内府はこの一件の後、西の丸に天守を築かれた。秀頼様と並び立つ者がここにあり、と天下に示すかのごとくに。
結城の地で、拙者は一年近くを過ごした。豊臣の禄を食みながら、豊臣の城を追われた男として。
四、東軍の陣にて
慶長五年(一六〇〇年)七月、拙者は赦された。赦したのは、拙者を流した当の内府である。
そして同じ年の九月、拙者は美濃関ヶ原の野に立っておった。西軍ではない。東軍の先鋒、福島正則殿の隊に属してである。豊臣に殉じた男がなにゆえ東軍に、と怪訝に思われようが、拙者はあの時たしかに徳川方の旗の下におった。武功のほどは、後の世の軍記が宇喜多勢の鉄砲頭を討ち取ったなどと書いておるが、真偽は知らぬ。
戦の後、拙者は内府より書状を託され、大坂城への使者を務めた。豊臣家に対して他意なし、との旨を伝える使いである。そしてそのまま大坂に留まり、再び秀頼様にお仕えすることとなった。
拙者を「はじめから終わりまで反徳川の陰謀家であった」と語る者がある。だがこの一年余りを見れば分かろう。拙者は流され、赦され、東軍として戦い、内府の書状を運んだ男なのである。拙者と徳川の間に通ったこの細い糸が、後に豊臣家に残された数少ない綱となる。
五、且元殿、去る
それより十四年、拙者は秀頼様の側近として大坂に仕えた。
慶長十九年(一六一四年)六月、拙者は秀頼様より五千石の加増を賜った。しかもそれは大御所様の口添えによるものであり、拙者は礼を申し上げるべく駿府へ、そして江戸へと下った。今にして思えば、あれが最後の穏やかな旅路であった。
その年の夏、方広寺の鐘の銘が槍玉に挙がった。「国家安康」「君臣豊楽」の八字が大御所様を呪うものである、と。母・大蔵卿局は弁明の使者として駿府へ赴いたが、事は収まらなかった。
板挟みとなった片桐且元殿は、秀頼様の江戸参勤か、淀殿の江戸下向か、国替えか、いずれかを呑むほかなしと申された。城中はこれに激昂した。十月一日、且元殿は大坂城を退かれた。
世には「治長が且元を追い落として実権を握った」と語られておる。だが拙者と且元殿は、対徳川の融和を説くという一点において、本来は同じ側に立つ者であった。且元殿が去って空いた穴を、埋めるほかなかったのが拙者であった、というのが実のところである。
こうして拙者は豊臣家の政務を主導する立場となった。城には諸国から浪人衆が続々と集まってきた。譜代の家臣と、新参の浪人衆。この二つを噛み合わせることが、拙者の仕事となった。
六、冬の陣、そして講和
慶長十九年十一月、大坂冬の陣が始まった。拙者は渡辺糺殿とともに鬮取奉行を務め、持ち場の割り振りを差配した。籠城戦の中枢に座ったのである。
軍議では、浪人衆から城を出て打って出るべしとの声が上がった。拙者は籠城を主張し、これを退けた。この一事をもって、後世は拙者を臆病、無能と罵る。だが寡兵の豊臣方が野に出て徳川の大軍に勝てる算段が、どこにあったか。城に拠って持ちこたえ、その間に和議の糸口を探る。拙者にはそれが唯一の道に見えた。
十二月八日から十二日にかけて、拙者は織田有楽斎様とともに、徳川方の本多正純殿・後藤光次殿と膝を突き合わせた。本丸のみを残す城割り、浪人衆への扱い、条々を詰めて和議は成った。証として、拙者は次男・治安を人質に差し出した。
「父上、行って参ります」
わが子を敵陣に送る朝、弥七郎はそう申した。あれが最後に交わした言葉であった。
だが和議の後、堀は外堀のみならず内堀までも埋められていった。これを拙者の交渉の失態と責める声がある。近年は、はじめから徳川方の腹づもりであったろうと見る向きもあると聞く。いずれにせよ、埋められた堀は戻らなかった。
七、味方の刃
和議を最も憎んだのは、敵ではなく味方であった。
慶長二十年(一六一五年)四月九日の夜、拙者は大坂城の楼門にて襲われた。護衛の者二人が斬られ、拙者も一刀を浴びた。差し向けたのは弟・治房ではないかと、城中の誰もが囁いた。確たる証はない。治房は主戦の急先鋒であった。兄が徳川と話をつけようとするのが、あれには裏切りに見えたのであろう。
「城の中で、味方に斬られるか」
もし拙者が世に言われるごとく大坂城を専断していたのなら、なにゆえ味方の刃が拙者の首を狙う。豊臣家の統制は、この時すでに崩れておったのである。それでも拙者は和平の道を捨てなかった。捨てれば、秀頼様と淀殿の命を繋ぐ細い糸が、そこで切れると分かっておったからである。
八、天王寺口
慶長二十年四月、大坂夏の陣が始まった。堀を失った城に、もはや籠る力はない。戦は城外での野戦となった。
五月六日、拙者は誉田にて後詰めを指揮した。翌七日、天王寺口の戦い。真田左衛門佐信繁殿、毛利勝永殿らが必死に押し返したが、ついに豊臣方は総崩れとなった。拙者も傷を負い、血に塗れて本丸へ引いた。
もはや戦で覆すことはできぬ。ならば残された手はただ一つ。拙者は独断で、秀頼様の御正室・千姫様を城外へお出し申した。千姫様は将軍秀忠公の姫君であり、大御所様の孫にあたられる。その手に、秀頼様と淀殿の助命の嘆願を託したのである。
「姫様、なにとぞ。なにとぞお二方のお命を」
これは軍略ではない。策とも呼べぬ。ただ、豊臣家を残す道が他に見当たらなかった。翌八日、大御所様は孫姫の願いに逡巡されたと伝わる。だが将軍秀忠公が、これを拒まれた。
九、山里曲輪にて
望みは絶えた。
五月八日、拙者は山里曲輪に控えた。そこには秀頼様がおられ、淀殿がおられ、母・大蔵卿局がおり、そして長男・治徳がおった。拙者が生涯を捧げた者たちが、皆そこにおった。
「修理、長かったな」
秀頼様がそうお声をかけられたと、拙者は思いたい。記す者のない場であったゆえ、拙者の最期の言葉として世に伝わるものは、実は一つもない。辞世の句も残っておらぬ。敗れた側の首座に、筆を執る者は残らなかったのである。
ただ、遠く奈良の興福寺の社司が、伝え聞いた話をその日記に書きつけている。
「大野修理沙汰して最後に切腹なり。手前の覚悟比類なし」
最期の差配を執り、覚悟のほどは比べる者もなかった、と。敵味方の外にいた者が記したこの一行が、拙者に残された唯一の墓碑銘であろう。
拙者の墓所は、どこにもない。遺骸の行方も知れぬ。乳母子として生まれ、乳母子として死んだ。四十七年、拙者は同じ場所に立ち続けただけであった。
後書き
大野治長は、永禄十二年(一五六九年)頃の生まれとされ、慶長二十年(一六一五年)五月八日に大坂城山里曲輪で秀頼・淀殿らとともに自害した。享年四十七。生年に確実な記録はなく、享年からの逆算と、淀殿の乳母子であるという関係から同年代と推定されている。父は大野定長(佐渡守)、母は淀殿の乳母・大蔵卿局。この母の職掌こそが治長の生涯を決めた最大の要素であり、彼の立身も、彼にまとわりついた不名誉な風説も、すべてこの一点から生じている。
江戸時代を通じて、治長は徹底して悪役であった。淀殿と密通し秀頼の実父であるという説、片桐且元を追い落とした奸臣という説、浪人衆の献策を退けた愚将という説。いずれも『明良洪範』や『難波戦記』系統の後世の逸話集・軍記に由来し、同時代の確かな史料の裏づけを欠く。桑田忠親は密通説を、豊臣家の悪口を書くほど歓迎された徳川治世下の言説環境が生んだ創作と断じている。
近年の研究、とりわけ笠谷和比古『関ヶ原合戦と大坂の陣』(吉川弘文館、二〇〇七年)や渡邊大門氏の一連の史料批判は、この像を大きく塗り替えた。家康暗殺嫌疑による流罪、翌年の赦免、関ヶ原での東軍参戦、戦後の使者役、慶長十九年の家康の口添えによる加増と駿府・江戸への答礼。こうして経歴を並べれば、彼が生涯を通じた「反徳川の陰謀家」でなかったことは明らかで、むしろ豊臣家に残されたほとんど唯一の対徳川交渉チャンネルであった。冬の陣の講和をまとめ、主戦派に闇討ちされて負傷してなお和平の道を探り、最後は千姫の脱出に助命嘆願を託した。勝ち目の薄い盤面で現実的な手を打ち続けた調整役、というのが今日の評価である。なお治長本人の言葉として確実に伝わる名言も辞世も現存せず、本稿中の会話はすべて演出上の創作である。
―――――――――――――――――
【改訂履歴】
・2025年3月20日 初出
・2026年8月2日 全面改訂(歴史研究の文献と照合し、生没年・系譜・合戦の経緯など事実関係を見直しました。伝承・俗説に由来する逸話は、その旨が伝わる表現に改めています)
【読者の皆さまへ】
本連載は空想企画ではありますが、お読みくださる方に誤った歴史をお伝えしないよう、研究文献と照らし合わせながら内容の見直しを続けています。それでもなお、至らぬ点や誤りが残っているかもしれません。お気づきの点がございましたら、コメント欄でご指摘いただけますと幸いです。内容を確認のうえ、記事へ積極的に反映してまいります。
いいなと思ったら応援しよう!
サポートされたお金はすべて、お城を盛り上げる「デジタル城下町プロジェクト」の開発・運営に使われます!