モンテスキュー『本当の話』、18世紀の転生もの小説を読む
「三権分立」の提唱者として教科書にも登場するモンテスキュー。
『法の精神』の著者という政治思想家としてのお堅いイメージが強いですが、
もともと書簡体小説『ペルシア人の手紙』をヒットさせて世に出た人なので、文筆家としての一面も持っています。
彼が遺した奇妙な転生ものの小説、『本当の話』が岩波文庫から翻訳されました。
訳者は、『ペルシア人の手紙』も翻訳している18世紀フランス思想の研究者の田口卓臣氏です。
訳書で120頁ほどの長さ。
短いので早速サクッと読んでみました。
(ちなみに、この記事を投稿した今日は、奇しくもモンテスキューの誕生日1月18日だったりします)
『本当の話』ってどんな本なんだろう?
ぶっちゃけてしまうと、『本当の話』は、モンテスキューの作品の中でもドくそマイナーな作品です。
私もこの翻訳出版の話を聞くまで、その内容どころか存在すら知りませんでした。
『ペルシア人の手紙』のような、政治思想がなかに含まれているのかな?
でも短いみたいだから、社会風刺どまりかな?
とか思っていました。
また、この小説のタイトルの由来となった、西洋最古のSFとも言えるルキアノス『本当の話』のように、
月世界での戦闘や巨大クジラの体内での冒険といった、ファンタジーな作品なのかもしれないかな、とも想像していました。
本当の『本当の話』
しかし、実際に読んでみると、そんな予想は思いっきり肩透かしを食らうことに。
本作の内容は、何度も転生したことがあるという複数の語り手たちが、自身が過去に経験したことの記憶を語って聞かせるというものでした。
たしかに徴税請負人や宮廷社会への皮肉や風刺、あるいは気の利いたフレーズは端々にあります。
しかし、その点では『ペルシア人の物語』の方が何枚も上手です。
『本当の話』には、一つ一つがとても短く、相互には関係なく、脈絡のない、転生譚の断片たちが並んでいたのでした。
転生先の多様な複数の視点
物語は、語り手たちが経験した多くの転生を淡々と描いています。
転生先は実に多種多様。
ある時は高貴な身分の男性、ある時は奴隷に酷使される動物、またある時は神のように崇められる動物に。
また女性になることも多々あり、宦官にすらなったケースも。
突然、成人後の身体に転生したり、直前の人生で関わった人物に転生して前世の自分と同時存在することも。
(どこのなろう系小説ですかってやつです)
転生した一つ一つのエピソードに、ドラマチックさも大した起承転結もあるわけではありません。
転生前後での語り手の人格の一貫性も弱く、魂の浄化や人間性の成長といった、教訓めいた物語が各転生話を結びつけているわけでもありません。
モンテスキューの観察眼?
でも、この複数のエピソードのまとまりのなさこそ、ある意味でモンテスキューらしいのかもしれないなとも思いました。
気候、土地柄、宗教、風俗といった多角的な要因から社会に目を向けた『法の精神』。
そこで発揮された、一つ一つの事象を異なる角度から相対化するようなモンテスキューの観察眼が、
この小説では転生ものという形になったのかなと感じました。
異なる存在になり変わって、その視点から世界をながめる。
そんな思考実験の連鎖が、大著『法の精神』へと結実する政治思想の、もっとも原初的な萌芽だったのかもしれません。
(ここまで言うのは、ちょっと大袈裟かもしれませんが)
転生もの小説としての『本当の話』
転生についての訳者解説
こういう短い作品、素人的には少し捉えどころのない小説だと、参考にするために読んでみたいのが専門研究者による解説です。
訳書解説では、オリエンタリズム、ピカレスクロマン、モラリスト文学という文学的要素との関連について言及する一方、転生をモンテスキューに特異な要素としてピックアップしていました。
いずれにせよ、本書で展開される転生思想が異様なものであることには変わりない。
十八世紀フランスに視点を限ったとしても、その異様さは際立っている。……
訳者自身の感触を述べるなら、フィクションという形式を採用しているとはいえ、かくも多種多様な転生のヴァリエーションを具体的に枚挙しながら、読み物としての凄みや面白さまで兼ね備えた書物というのは、十八世紀フランスでは『本当の話』以外に思い当たらない。
このように、オリエンタリズム、ピカレスク小説、モラリスト文学、という三つの要素のどこからアプローチしてみても、モンテスキューの『本当の話』は単純な類型化から零れ落ちていくような複雑さ、異様さを宿している。
そして、例外的に転生の発想をした存在、そしてモンテスキューの発想の源泉として、訳者は哲学者ジョン・ロックを挙げています。
ロック『人間知性論』での「ある王侯とある靴職人がそれぞれの記憶を保持したまま身体を交換することは理論的に可能である」という話を引いて、
「モンテスキューが『本当の話』においてこのロックの思考実験を参考にした可能性は、非常に高い」と訳者は書いています。(「訳者解説」157頁)
しかし、これには個人的にちょっと納得できないなぁと思っています。
18世紀の転生もの小説その1 クレビヨン・フィス『ソファ』
納得できないと思ったのは、同時代の転生ものの例として、クレビヨン・フィス『ソファ』という小説があることを知っていたからです。
内容を現代風に紹介すると、『転生したらソファだった件〜僕の上で男女が真実の愛を交わすまで人間に戻れません』というタイトルのノクターン小説です。
人間に戻った主人公が、ソファとして転生していた時期の数々の男女の話を東洋の皇帝の前で披露する、という『千一夜物語』の形式を流用しています。
当時はリベルタン小説としてメジャーな作品であり、訳者の田口氏が専門とするディドロがこの作品に影響を受けて、『不謹慎な宝石たち』を書いたとされています。
転生先がソファに限られているとは言え、こういう転生ものがあるなら、他にも転生ものがあってもおかしくないんじゃないか?
そう思って、少し調べてみたら、他にも転生ものが見つかりました。
18世紀の転生もの小説その2 ギューレット『中国のコント』
他ならぬモンテスキュー自身が序文で言及した、トマ=シモン・ギューレットの『清朝官僚フム・ホアムの驚くべき冒険、中国の小話集』は、まさにモンテスキューの先駆者たる転生ものでした。
ネットで調べたこの本の内容だと、皇帝と王妃(亡命中のグルジア王女)に夜ごとに官僚フム・ホアムが自身の数々の前世の転生譚を語るというもの。
そして最終的には、語り手のフム・ホアムが王妃の兄グルジア王子だったと明かされる、とのこと。
これまた『千一夜物語』の形式を踏襲した物語になっているようです。
調べた断片的な情報からすると、転生先には異性や人間以外の動物も含まれるらしいので、
この小説はモンテスキュー『本当の話』の直接的な先駆者と思うのですが、実際のところはどうなのでしょうか?
さしあたり、『中国のコント』と比較すると、語り手の複数性、転生者の人格的な一貫性の乏しさがモンテスキューの特徴とでもいえるでしょうか?
この取りあげた2作品とも訳者田口氏の専門とする18世紀フランスの作品なのだから、なおさら解説とかで関連など述べてもらいたかったと思いました。
感想
スキュデリー嬢『イブラヒム』とモンテスキューについて
『本当の話』自体からは話が外れてしまうのですが、今回の読書での収穫の一つは、スキュデリー嬢『イブラヒム』の存在を知ったことです。
モンテスキューは序文で、このマドレーヌ・ド・スキュデリーの『イブラヒム、または高名なパシャ』という17世紀の作品に言及しています。
スキュデリー嬢は、ホフマンの推理小説『スキュデリー嬢』(森鴎外訳「玉を懐いて罪あり」の原典)のモデルとなった人物です。
しかし、今回調べてみるまで読んだことも内容も知らなかったのですが、彼女の『イブラヒム』の概要がとても面白そうだったんです。
『イブラヒム』は、史実に人物オスマン・トルコの皇帝スレイマン1世と宰相イブラヒム・パシャを登場させた、ハーレムを舞台にした恋愛物語。
当時のフランス王ルイ13世と宰相リシュリューを想定した、あるいは幼王ルイ14世と宰相マザランへの提言という政治的な含意があるそうです。
でもこれって、モンテスキューの『ペルシア人の手紙』とも呼応する設定に見えて来ませんか?
両者とも同じく東洋のハーレムを舞台にしている、フランスの政治を風刺しながら政治的な含意を持たせた小説なんですから。
『イブラヒム』は翻訳もないようですし大著っぽいので、ちょっと専門研究者の方に政治思想の視点から両者を比較とかしてみてほしいところです。
『本当の話』の掴みどころのない読後感
教訓や感動を目当てにしていない本書『本当の話』は、不思議な読後感がありました。
つまらない、退屈というわけではないのですが、どこか掴みどころのないような印象が残りました。
こういう文章は、ぜひ他の文芸批評に長けた方の感想や講評を聞いてみたいなと思いました。
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最後まで読んでいただき、ありがとうございました‼
