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[vol.16] 悲喜交交の会津藩主 四谷荒木町に生誕した松平容保

“先の戦争”といえば、世間では第二次世界大戦を連想しますが、会津の人々は、何かを申し合わせたように、戊辰戦争だと答えることがあります。この戊辰戦争は、明治元年(1868)に勃発した、新政府軍と旧幕府軍による日本近代史最大の内戦でした。

会津では、鶴ヶ城での篭城戦の末、薩摩藩・土佐藩が中核となった新政府軍に対して、会津藩を筆頭にした旧幕府軍は敗れ、飯盛山での白虎隊の悲劇も生まれました。この激動の瞬間に、会津藩主を務めたのが松平容保(まつだいら かたもり)でした

松平容保といえば、学校の教科書にもあるように、幕末の動乱に京都守護職として活躍したことで知られています。
意外かもしれませんが、容保の生まれは東京都新宿区の四谷荒木町です。四谷荒木町は、明治時代には「お江戸の箱根」と呼ばれたほど風光明媚な街並みがあり、現在では小料理屋や居酒屋がひしめき合い、入り組んだ路地裏にはノスタルジーを感じることができます。

容保が生まれた天保6年(1836)は、この荒木町一帯に美濃国高須藩(現在の岐阜県にあった藩)の松平摂津守家の上屋敷があり、容保は当時の高須藩主の六男でした。容保が12歳のときに、会津藩主であった会津松平家の養子となり、現在は皇居外苑の和田倉噴水公園となっている会津藩上屋敷に迎えられ、会津の精神を体得していきました。この会津の精神のひとつに、「徳川家に忠勤、忠義を尽くさなければならない」というものがあり、後に容保の運命を大きく左右することになります。

その後、容保は、17歳で初めて会津に入り、前代の逝去に伴い18歳の若さで会津藩主となります。

会津藩主となってからは、幕末期の京都の治安を回復すべく、幕府から京都守護職の打診があり、何度か固辞しますが、会津の精神を持ち出され、損な役回りだと認めつつ奉命を決心します。京都での活躍ぶりには、当時の孝明天皇からの信頼も厚かったものの、王政復古の大号令により守護職が廃止、鳥羽・伏見の戦い以降は新政府軍と旧幕府軍の立場が逆転し、ついに会津藩は朝敵(朝廷の敵)とされ、賊軍という汚名まで着せられてしまいます。

幕府や朝廷に仕えることが会津の精神的支柱であったことを考えれば、容保や会津藩の武士らの心中は察するに余りあるところです。会津にとって戊辰戦争は、武士として、そして会津人としての誇りを守り抜くための戦いであったのかもしれません。

最晩年、容保は病気療養中に、孝明天皇の妃であった皇太后から、滋養のためと当時は贅沢品の牛乳が贈られます。皇太后は牛乳の匂いが苦手な容保を慮って、香料を加えるよう指示し、医師が牛乳にコーヒーを混ぜ、容保はそれを感涙にむせびながら飲んだといわれています。

松平容保は“悲劇の会津藩主”という文脈で語られますが、この逸話も踏まえれば、容保の人生は、苦いコーヒーと甘い牛乳が混ざり合わさったように、悲喜交交としたものであったのかもしれません。

松平摂津守家の上屋敷の名残がある地名(摂津守=津の守)
四谷荒木町にある策の池(近くの荒木公園には上屋敷跡の説明板もあります)

<最後に>
松平容保の終焉も、生誕と同じく東京の地です。場所は文京区の旧第六天町(現小日向)ですが、容保の痕跡を残すものは何もありません。同じ旧第六天町には、徳川幕府最後の将軍・徳川慶喜 終焉の地もあります。時代に翻弄され、袂を分かった二人が終焉の地を同じにするのも歴史の不思議を感じるところです。

【関連リンク】
・会津若松市HP「会津と新選組~幕末の会津と新選組の歴史を紐解く~」

・一般財団法人会津若松観光ビューローHP「鶴ヶ城」

【掲載元】
・福島県東京事務所HP(2024年10月掲載)