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[vol.21] 百年前の復興 陣頭に立った堀切善次郎 有楽町の東京府庁舎跡

およそ百年前、東京にも復興の時期がありました。大正12年(1923)9月1日の関東大震災です。神奈川県西部を震源にマグニチュード7.9の地震が発生し、揺れと火災により、東京、神奈川が壊滅状態に陥りました。東京市(現・東京23区)の街並みの4割が焼失、死者・行方不明者が10万人を超える未曾有の大惨事でした。
震災直後、内務大臣に任命された後藤新平(後述の帝都復興院総裁も兼務)は、“復旧ではなく復興”を掲げ、街を元通りにするのではなく、より良い都市を実現する新たな東京を目指しました。そして、復興の陣頭に立った一人に、復興局長官を務めた政治家・堀切善次郎(ほりきり ぜんじろう)がいました。

堀切善次郎は、明治17年(1884)、福島市飯坂町に堀切家の次男として生まれました。父は地域の名望家・堀切良平、兄は衆議院議長、駐イタリア大使を務めた堀切善兵衛、弟には衆議院議員の内池久五郎がいました。“飯坂”、“堀切”でお気付きかもしれませんが、飯坂町にある観光施設「旧堀切邸」が一家のルーツです。
善次郎は、東京帝国大学法学科を首席で卒業し、内務省に入省します。様々な役職を経て、震災後の大正15年(1926)には復興局長官を務めます。また前後に、大正14年(1925)に神奈川県知事、昭和4年(1929)に東京市長と立て続けに歴任したことから、震災後の復興に心血を注いだことが窺えます。

復興局は、大正13年(1924)に帝都復興計画を実行に移すため、内務省に設置されました。震災直後には、内閣総理大臣直属の政府機関として帝都復興院が設置されますが、復興計画を定めた後に廃止され、復興局に受け継がれます。
復興局と東京市等は、事業を分担しながら、道路・橋梁・河川・運河・公園等の整備や区画整理等に当たります。特に被害の大きかった火災を教訓に、延焼を遮断する52本の幹線道路(昭和通り、靖国通り等)、木製に代わる9つの鉄橋、避難場所となる3つの震災復興公園と52の小公園、鉄筋コンクリートの小学校等が整備されていき、多くが社会資本として現代にも形を残しています。
また、震災前から日本橋・銀座等の都心の人口過密が問題になり、郊外への人流の動きが徐々にありましたが、震災を機に郊外化が一気に進みました。再開発や交通網の整備により、新宿・渋谷・池袋がそれぞれ都市の中心となって発展していき、山手線の外側に向けて東京の街が大きく拡張していきました。

昭和5年(1930)3月には、復興事業の完了を記念して、帝都復興祭が二重橋前広場で催されました。この記念式典が終わるや否や、続けて東京市主催の帝都復興完成祝賀会も日比谷公園で開催されます。筆頭は東京市長の堀切善次郎、彼にとって、復興の集大成となった瞬間でした。東京市民のために乾杯する姿にも、どこか誇らしさを感じます。
復興の時期も過ぎ、善次郎は終戦直後に内務大臣を就任するまでになりますが、その後、首都圏在住の福島県出身者で組織される東京福島県人会の第3代会長を10年程度務めます。ここでも、福島県学生寮の建設に向けた募金活動を先頭に立って行う等、国や東京等で培った卓越したリーダーシップを発揮し、故郷の福島県に還元されていきました。

未曾有の大災害の前には、時として一人ひとりは無力です。ただ、全くのゼロではなく、小数点以下のどこかには微々たる力が見つかるかもしれません。“微力だが無力ではない”、その集積が復興を成し遂げたのではないでしょうか。そう考えれば、祝賀会での善次郎の乾杯は、東京市民に限らず、復興に関わるすべての人に捧げられたものかもしれません。

東京府庁舎跡(現在、府庁舎を示すものはこの石碑のみ)
東京国際フォーラム

<最後に>
東京都は、現在では“都”ですが、明治元年(1868)に設置されたときは“東京府”でした。明治22年(1889)に東京府内に“東京市”を設け、昭和18年(1943)に東京府と東京市が統合して“東京都”となりました。
東京市役所は、有楽町にあった東京府庁の中に開設され、同じ敷地内に同居したまま、東京都庁が誕生します(その後、新宿に移転)。この場所は現在の東京国際フォーラム。今では一角に「東京府庁舎跡」が残されています。

【関連URL】
・旧堀切邸HP

・東京都復興記念館HP

【参考】
・国立公文書館 アジア歴史資料センター

・昭和館デジタルアーカイブ「東京市民のために乾杯している著名な出席者たち(浜口首相ほか)」

【掲載元】
・福島県東京事務所HP(2025年3月掲載)