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①シンガーソングライター・松本哲也を育てた街は?

このインタビューのいつも通りの質問、いつも通りの呼び方で進めていきますね。“てっちゃん”こと、松本哲也を育ててくれた・くれている街はどこでしょう?という質問から始めます。
東日本大震災があってからは、岩手県・県全体になりましたね。
プロフィールとしては、水沢(現・奥州市)生まれですよね。
そうです。それから小学校の時に大船渡市に転校して、金ヶ崎町にも住んでたことがありました。そして(現在も居住している)盛岡市、それと震災前から行っていた山田町ですね。山田八幡宮の宮司さんが個人的にすごく応援をしてくれていて、色んな人も紹介してくれたりお祭りに呼んでくれたりとか。だからもう、(育ててくれたのは)岩手全体です。
岩手を離れて東京で音楽活動をして、それでまた、岩手に戻って来られたのっていつだろう?
まだ東京チームで作っていた『REAL』というアルバムを出した年…2009年ですか、ね。思い出した、「しあわせカモン」っていう映画の撮影が2009年にあって撮影現場に毎日いたので、それを機に、でしたね。

てっちゃんと一緒に
FM岩手の公開録音番組
「Monthly Music Focus」を
お届けしていた時(2009年)
この時遊びに来てくださった方にも
このインタビューが届くと良いな☆

最初の時点で震災という言葉が出ましたけど、てっちゃんは震災の時はどこにいました?
揺れた時はまさに、盛岡で借りていたマンションにいました。震災の前の日に、元ちゃん(下玉利元一/いしがきミュージックフェスティバル運営委員長)と家で飲みながら、桃鉄(=桃太郎電鉄)をやってたんですよ。確か前の日も揺れましたよね(補足:3月9日/10日もやや大きめの揺れを観測している)、“怖かったよなぁ”なんて言いながら。飲んで遊んで。
それで次の日は地震の10分前ぐらいまで家でゴロゴロしてたんですよ。起きて、レトルトのオニオンスープを飲もうと思ってウォーターサーバーのお湯を入れ始めたら揺れ始めて。デカい揺れだなと思ってたらもう、うぉお…っていう感じで、立ってられなくて。古い3階建ての建物だったのでメッチャ揺れたんですよ。ヤバい、と思って風呂場にマグカップぶん投げて、ちょっと収まったらすぐ外に出ようと思って。それで、ちょっと収まったタイミングで下に降りたら、電信柱とかがすごく揺れてて。うわ、うわ、うわわ…っていう感じですよね。
それからはどうしたの?
カーナビでテレビを見て、津波が来ている映像を見て。家の中もぐちゃぐちゃで、水槽があったんですけど、飼ってた魚ももう、ね。床もびっちゃびちゃで。電気・ガス・水道が全部使えなかったし、これは死ぬのかもな…と思いました。家に住める状態じゃないし寝られないな、っていうところに、元ちゃんから“大丈夫ですか?”って電話が来て。電話は繋がったんですよね。“キャラホール(・都南公民館)が電気も使えるから”って。それでキャラホールに行って、2晩いたと思います。それで、照井仁(ドラマー/松本哲也バンド編成でもサポート)に連絡して、ちょっと世話になっていい?って。そこから3日ほど照井仁の家にいました。それから山田町に向かった感じですね、だから、震災から5日後ですけど。

東日本大震災から5日後には
岩手県の沿岸部に向かった


震災後、ずいぶん早々に山田に行ったのね。山田に行く流れというのは?
元ちゃんと“まず(沿岸部に)行きましょう。炊き出ししましょう”って喋ってて。大船渡にポルコ・ロッソっていうイタリアンのお店があって、(山崎)純さん(シェフ・オーナー)がリアスホール(大船渡)で炊き出しをやってるっていう話で。“そこに手伝いに行こう。まずは状況を見て、物資とかも集めて、何かやれることをやりましょう”って、元ちゃんと話して。元ちゃんは大船渡に行くって言うんで、俺は北の方から(大船渡方面に)下っていくことにして、山田に入って。
2人で話をしながらも、現地入りは別々だったんだ?
別だったんです。出発前にまず毎日、ガソリンを入れて。7~8時間とか待っても少しずつしか入れられなかったですからね。何とか満タンにして、“アイーナ(・岩手県民情報交流センター)が避難所になってるから、毛布が大量にある”っていう話を聴いてたので、車にミチミチと毛布を積め込んで。あと石油も持って、俺は1人で山田に出発しましたね。
道中も大変だったでしょう。
沿岸の方に入った途端に、がれきとかはありましたけど住民のために自衛隊が道を作ってくれていたみたいで。通れないところもありましたけど、まず車1台分ぐらいは通れましたね。
山田についてまず、山田八幡宮の宮司さんのところに行ったんですけど神社には誰もいなくて。宮司さんの自宅が山の方だったので行ったら、皆がいました。そこで毛布…なんですけど、それを出した時に、女性用の下着も100枚ぐらい入ってたんですよ。毛布を託してくれた人が情報を集めてて、“女性用の下着がなくて困ってる”っていう話で、100均を回ってありったけのパンティを買い集めてくれてて。それを俺に託してくれたんですけど、俺、スゲー変態じゃん…?って思いながら。まぁそうも言ってられないなと思って、毛布とか下着を持ってきたこととか、宮司さんに伝えたら避難所に案内してくれてそれを配って。配り終えて夜は、大船渡に向かった感じでした。
でも確かに、女性用の下着がないといった話は耳にしてました。なるほど、その後はすぐに大船渡へ。
大船渡に向かおうと国道45号線をずーっと走って行ったんですけど、ちょうど(釜石市)両石でバツンと道がなくなってて。戻るにも道幅が車1台分ぐらいしかないのでUターンが出来ず、暗闇の中を長い距離、ずーっとバックで。本当に真っ暗で怖かったし、ビクビクしながら、それで山の方に入って何とか、大船渡に辿り着いた感じでしたね。

お酒を飲んで感情を放出できる
そういう場所が必要だったと思う


それからというのは?
ずっとそのまま大船渡に滞在したんですよね、大船渡から陸前高田に行ったり、大槌・山田に行ったりして沿岸部を行き来しながら小っちゃい避難所を元ちゃんと2人で訪ねて。岩手県の避難所リストっていうのがあったんですけど、載ってない避難所も結構あったしそこに物資が来ていないのが分かったので“ウチらでそういう所を回ろうぜ”って。それで盛岡には一切、戻ってないんですよ。
元ちゃんの岡山県とか東京の友達とかに連絡をして、物資を積んだ2トントラックが3台ぐらい来てくれたのかな。それを一緒に配っているうちに、“やっぱり炊き出しが欲しいよね”って話になって。“みんな飲みてーべなぁ”って話しながら、お酒が飲める屋台みたいなのが良いんじゃないか、“移動式の復興屋台をやろっか”みたいな話になって。“これはとりあえず雫石(吉隆/当時・盛岡博報堂/いしがきミュージックフェスティバルもこの方がいなければ出来ていない)さんに相談だろう”ということになり、俺が1人で盛岡に戻って。雫石さんに話をした感じでしたね。“うん、やろう!”って雫石さんも。そこから色んな仲間とも、核になる話が出来て。
(↓当時のこのお話が朝日新聞のウェブサイトに残っていました↓)

それが震災からどれぐらい経った頃だろう?
2~3週間ぐらいじゃないかな…?と思いますね。それで“やりましょう”ってなったものの、お金はどうする?っていう話になって。雫石さんが“復興食堂チケットを作って、盛岡の飲食店さんで売ってもらう。5000円でチケットを売って、そのうちの1000円が炊き出しの費用になる形にしよう”って。盛岡の飲食店もお客さんが来なくて困ってるし、こんな時に飲み歩いて良いのかっていう空気もあった。でも、飲みながら支援が出来るし盛岡の飲食店も応援できるし、堂々と飲みに行って欲しかったですし。
そうそう、ライブとかも自粛があったりしましたもんね。でも沿岸部で“お酒が飲める”場所を作るっていう発想、良いなと個人的には思うんです。
この発想は元ちゃんですよね、俺も飲みたいなって思ったし(笑)。お酒を飲めば多少、辛い気持ちも紛れたりするじゃないですか。目の前にどうしようもない現実があってどうしようもない状況でどうにもならない、けど、せめて何か。酔っ払って、辛いって、思いっきり泣いたり、怒ったりでもいい。とにかく感情を放出する、そういう場所が必要だったんじゃないかな、って。お酒ってそういう良いアイテムだったりするし。
元ちゃんとは“殴られる覚悟でやろうぜ”って言ってました。相手は自然ですし、被災した人はどこにも当たりどころがないと思うんで。お酒を飲めばちょっとしたことでキレるかもしれないし、でもそれをもどんどん受け入れようっていう気持ちで行こうぜ!って。でもやってみて、うん…馬鹿みたいに飲む人はいませんでしたね。“はぁ~、1ヶ月ぶりだ!”って言いながら、ビールをひと口、ひと口。“おいしい~”って、大事に飲んでましたもんね。

松本哲也/シンガーソングライター】
岩手県生まれ・岩手県在住
希望郷いわて文化大使・さんりく大船渡ふるさと大使
2022年にデビュー20周年を迎え
最新リリースは「小さな手」(2024年11月)
同年1月「Live Music Pub CENTURY」を盛岡市にオープンし
同・4月には自身のマネージメント事務所
株式会社センチュリー」を設立した

彼のこれまでの生い立ちや音楽活動は
映画やテレビの特集等、多く取り上げられている

【「②松本哲也のそばにある1曲」に続く/3月14日公開予定】

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