アニメ業界の闇を暴こうとして見えた意外すぎる真実 『デルタの羊』書評
今季(2024・春)アニメは『ガールズバンドクライ』や『夜のクラゲは泳げない』など、クリエイターの共感を呼ぶ作品が話題となった。映画の方でも『トラペジウム』や『数分間のエールを』などが注目されたりしている。
しかしこれらの作品がフォーカスしているのはアニメ業界でいうところの〝制作〟に関わる人たちであって、〝製作〟に関わる人たちではないことに気づかれた人はどれほどいるだろうか。
おそらくこの二語の違いがいまいちピンとこないという方も多いだろう。しかし、この違いを知らなければアニメ業界を知るスタートラインにすら立てないのである。
今回私が紹介したいのはアニメ業界を〝制作〟と〝製作〟の両面から途方もなくリアルに描き切った小説、塩田武士著『デルタの羊』だ。
本作は著者の徹底的なリサーチによって現在のアニメ業界というものを丸裸にしながら、そこに生きる者たちを数多の取材を通じて感じ取った空気感によって鮮やかに描き出している。
ときに、多少アニメ業界に関心のある人なら「若手声優や若手アニメーターが食っていけないほどの給料しかもらえないのは製作委員会方式が悪いからだ」というような言説を見聞きした人もあるだろう。
本作の企画も当初はそのような噂から始まったという。著者はそういった〝アニメ業界の闇〟を暴こうとして幾多の取材や資料渉猟を重ねたわけだ。しかしその結果として、著者は噂とは全く違う実体をそこに見出してしまったのである。
現在日本が世界に誇るアニメという文化――そのあまりの脆弱性と、それを支えているお金ではない「独自通貨」の存在――。
もしアニメを今後も日本の誇れる文化として守りたいのなら、私たちはまずそれを知るところから始めねばならない。
1.狂気的リアリティ
私はなによりも初めに、本作がドキュメンタリーやルポではなく小説であるという理由で「け、何が業界のリアルだ」とこれを侮る人たちを完膚なきまでに叩きのめし、銀鏡イオリよろしく足を舐めさせるところから始めなければならない。

まず、本作の奥付には取材協力として15人の名前が刻まれている。この中にはあの『鬼滅の刃』を手掛けたアニプレックスのアニメプロデューサー・高橋佑馬氏や、神風動画の代表取締役・水崎淳平氏などアニメ業界の重鎮の名が含まれる。取材の資料は文字へ書き起こしたものをプリントアウトしただけで10センチを超えたらしい。また、参考文献には一冊1万円以上が定価の『アニメ産業レポート』をはじめ、20以上もの文献が連なっている。
しかしこれだけではない。著者へのインタビュー記事を参照すると、著者のリアリティ追及に対するもはや狂気じみたまでの執着がより鮮明となってくる。
この著者は本作を上梓する前はジブリくらいしかアニメを見ないような人物だったらしい。しかし本作の内容はそれがオタクの書いたものだと言われても首肯してしまうほどにオタク知識で溢れかえっている。
これを実現するため、著者はなんと自身の手でオタク資料集を作ったのだという。そしてそれをセリフに当て込み、本物のオタク編集者にチェックしてもらったというのだ。
そしてリアリティ追及の鬼が見せる狂気の極めつけは、なんといっても本作が発売を目前にしてそれを延期し、追加取材を行って加筆修正されたものであるという事実である。というのは、コロナが流行して声優業が甚大な影響を受けていることを知った著者が「コロナをはずしたら現代小説として成り立たん!」と発憤したのである。
この方針転換が小説に与える影響は計り知れない。連載小説で「あ、この設定以前書いたところと食い違う」と気づいた時と似た絶望感でもって、途方もない修正作業に当たらねばならなくなることが容易に想像されるのである。
しかしそれを苦とも思わぬこの著者の、狂気的なまでのリアリティ追及の結晶が本作なのである。ここまで説明してもなお、これを「所詮小説」と馬鹿にするものはいるだろうか?
いない? そうかそうか。納得いただけたようでなによりだ。――あぁいや、別に靴下は脱がさなくてもいいのだよ。別に私の足はおいしくはないから。
2.それぞれの〝セイサク〟
小説というのはしばしばメタ構造というものを利用する。
メタとは「高次の」という意味を持っており、たとえば読書を例にとったもっともシンプルなメタ構造は本と読者ということになる。本が低次で、読者が高次である。
さて、本作に登場するアニメ製作プロデューサーの渡瀬智哉は自身が心酔するSF小説『アルカディアの翼』のアニメ化に着手していた。しかし業界の慢性的な病巣がこのときになって一度に顕在化し、その制作が次第に危ぶまれ始める――
――という内容のアニメを制作するという話がアニメーターの文月隼人のもとに舞い込んできた。中国発の企画で、制作スタジオの命運がかかっているという。しかしこの作品にはその内容が「日本アニメ潰しだ」として、制作を中止するよう声をあげるアニメーターたちもいた――
このように、本作は小説内部にメタ構造を有するのであるが、ここでの眼目はこのメタ構造が〝製作〟に携わる渡瀬と〝制作〟に携わる文月とを明確に二分している点にある。この違いを簡単に説明する文章をちょっと他から引いてみよう。
アニメ業界を理解するうえで最初につまずいたのが「製作」と「制作」の違いでした。辞書で「製作」の意味を調べると「制作」と出てきます。しかし、アニメ業界では企画や出資を行う「製作」と、実際に絵を描いてアニメを作る「制作」を明確に区別しています。
この区別がアニメ業界においていかに重要であるかを見抜く慧眼と、それをメタ構造で表現しようという読者の発想力には脱帽せざるを得ない。
本作はこのメタ構造によって、それぞれの世界でそれぞれの〝セイサク〟を描いていくのであるが、このメタ構造の低次と高次の間にある隔絶は、まさに現実における〝制作〟と〝製作〟の両世界の隔たりを秘かに暗示しているようである。
俺はこの身を持って製作委員会方式が万能ではないと学んだ。同時に自分たちがもつ武器が何なのか、再認識もした。
そう語る渡瀬は〝制作〟と〝製作〟の間にある壁を打ち破ろうと試みる。
つまりこの物語は、はっきりと二分された二つの〝セイサク〟が徐々に混然一体となって融合し、新たなアニメ業界の展望を切り開くストーリーとして完成に向かっていくのである。
本作を読むにあたってこのメタ構造が放つメッセージ性を見逃しては、その魅力は半減してしまうことだろう。
3.アニメ業界には善人ではない人間が必要
先に取り上げたインタビューの中で著者は本作のテーマを「人間は強い。必ず乗り越えていく」にしていると述べている。
だが私はこの作品に伏流する静かなる主張というのは、次の引用に見られる文章の中にあるように思えてならない。
「君は決して善人ではない」
「存じております。でも、だからこそ、アニメ業界に必要な人間だと思っております」
これは『アルカディアの翼』の原作者に渡瀬が指摘を受けるシーンである。
「善人ではない」が即座に悪人とイコールではないことは流石にご理解いただけることと思うが、しかし「アニメ業界には善人ではない人間が必要」というのは一体どういう意味なのか。
それを理解するためには〝制作〟側の人たちがもつ「独自通貨」の存在を知らなければならない。
本作の序盤では、文月隼人がインフルで重症の同僚アニメーターのもとへお見舞いに行くシーンが描かれる。しかし彼がその同僚アニメーターの家の前に着くときには既にそこにたくさんの差し入れが短いメッセージと共に置いてあった。つまりそれは、他のアニメーターたちからの差し入れである。
とりわけ重要なのは、文月とその同僚アニメーターが携わっているアニメの内容に抗議の声を上げ、制作を中止しろと自宅まで押しかけてくるような人間までが差し入れを置いていき、かつ「インフル休戦」のメモを残していたことだ。
先月からずっと篠田の批判はのどに刺さった小骨だったが「インフル休戦」のお見舞いに最後の守るべき一線を感じ取り、その温かいつながりが、自らに向けられているとも思えた。
場面替わって今度は物語の終盤。渡瀬智哉は聖ツカサという神アニメーターを取り込んで一大事業に取り掛かる。無論、それはアニメを作るということに外ならない。
新しい環境で、同じ志を持つものと賽を投げる必要があった。
愛媛・松山の辺鄙な場所に建つ小さなスタジオに、四国や関西、果ては都内から「聖ツカサと一緒に仕事ができるなら」と多くのクリエイターが駆けつける。デスクでペンを握り、夜に少し語らって、二、三日すれば去るという傍から見れば無味乾燥な時間を過ごすために――だ。しかも皆が交通費並みの手当てしか出ないのにアニメ発表の場での再会を約束してくれる。
「アニメーターの方って、ほんと資本主義に生きてないですよね」
彼らは横のつながりを支える「義理」や「情熱」、「好き」や「憧れ」といった「独自通貨」の世界に生きている。
「俺たちはあまりに善人だ。すぐに『好きなアニメが作れるだけでも』って考えてしまう羊だよ。もちろん、俺はそんなアニメ人が嫌いじゃない。でも、誰かが羊飼いにならなきゃ、日本アニメは地盤沈下していく」
渡瀬のこのセリフはおそらく、著者が取材を進める過程で感じ取ったアニメ業界の〝闇〟とは程遠い〝純真無垢〟さの発露であり、そしてそれを前提として成り立っている今のアニメ業界への危機感の表出であると、私には思えてならないのである。
ところで、今季アニメ『狼と香辛料』の監督の名は何といっただろうか? なんだか見たことのある文字がそこにあった気がするが、まぁ気のせいということにしておこう。
4.もっと風呂に入らねば!
数多の取材。大量の参考文献。メタ構造。そして単行本という形式。
これらの総和が「難しそう」というイメージと結び付いてしまう人は決して少なくはないだろう。特に、普段小説を読まない人なんかは余計そう思ってしまうことと思われる。
しかしご安心いただきたい。なぜならこの著者はその圧倒的なリサーチによって、サブカルチャーのノリまでしっかりと了解しているからである。以下にその例を一つだけ挙げてみよう。
状況としてはシリアスで重たい会話が続いているシーン。しかしその後ろで流れている曲が『スター☆トゥインクルプリキュア』のEDテーマ『パペピプ☆ロマンチック』だったため、そこにいた一人が堪らず「空気読めや」と指摘を入れる。
それに対する神アニメーター・聖ツカサの反応がこうだ。
「僕、この曲踊れるよ」
[中略]
「まず、普通に曲がいいし、かわいいダンス好きだし、[中略]風呂上がりに姿見の前で、一人練習したもんだよ」
そこにいた一同は神アニメーターが見せる意外な一面に唖然とする。
さらに――
「えっ、聖さんがCGを……」
「もうデジタル作画はマスターしたからね。ペンとは勝手が違うから、なかなか思い通りの線が引けないんだ。これが新鮮でね。懐かしいというか」
[中略]
「でも、本当に大したことはないんだ。あんまり時間が取れないから、風呂上がりにちょっとずつ、ね」
「また風呂上がりですか」
こうしてシリアスな雰囲気は一挙に和やかな笑いへと変わる。そしてその空気に乗じてなぜか「マジックを披露します」と言い出した人物に最後のダメ押しが入る。
「僕、たまにマジックのステージに上がるんだ」[中略]
「いやぁ、風呂上がりに練習してたら、ハマってね」
そして終わりがこう締めくくられる。
この人は、一日に何回風呂に入っているのだろう。
思わず笑いがこみ上げた。そしてズルいとも思った。これだけのリサーチ力を備えた人が、なぜこのようなラノベチックでコミカルな面白い文章まで書けてしまうのだろうかと。
そして私はハッと気づくのである。
この著者、一日に何度も風呂に入っているに違いない――と。
5.聞け アニメを愛する者たちよ
本書評の締めとして、私は冒頭で皆様に投げかけた問いを今一度吟味しておきたい。
果たして世間で俗に言われている「製作委員会が悪い」とは正しい指摘なのであろうか?
既に引用したように、本作に登場する〝製作〟側の人間・渡瀬智哉はそうは考えてはいない。彼は製作委員会方式に「限界がある」とは言っていても、「ダメだ」とは言っていないのである。それはなぜか。
製作側がせっせとリスクヘッジに勤しむのは、アニメ事業が基本的にハイリスク・ローリターンだからだ。
各出資会社の売り上げは流通、小売、原作・脚本印税などに流れ、残った金が出資比率に応じて委員会から分配される。純粋に委員会からもたらされる分配金だけを見れば、各社とも出資金の半分でも戻れば御の字だ。
つまり、制作会社だけではアニメなんて作れっこないのである。現在毎クール毎クール私たちがよりどりみどりで好きなアニメを選ぶことができるのは、赤字覚悟で制作費を出資する製作委員会があってのものなのだ。これを理解せず、ヒットして儲けている作品だけを見て「製作委員会が~」と言うのは甚だお門違いと言わざるを得ない。
もちろん、製作委員会方式に問題がないとはいわない。そのアニメがヒットした際に製作委員会が稼ぐ金と、制作会社が稼ぐ金の格差は依然として是正を求めていくべきであるし、そもそもアニメ人たちの善意によってなんとか支えられているアニメ業界の現状を見直さない限り、日本のアニメは本作が指摘するように「地盤沈下」していくだろう。
日本のアニメ業界に〝闇〟などなかった――と言うのは流石に声優へのセクハラなど他の問題を無視してしまうことになるので憚られるが、しかしそう言ってしまいたくなるほど、アニメ業界は表面のブラックさに比してそれを手掛ける者たちがあまりに純粋過ぎることが本作を読めば自ずから理解できるはずである。
そしてだからこそ、私はこの現代に稀有な純粋すぎるアニメ業界というものを守りたいと考えるのである。正しい軌道修正をして、存続可能なものへと変えていきたいのだ。
ただし、正しい軌道修正のためには正しい指摘が要る。正しい指摘のためには正しい知識が要る。そして現状を変えるには数多くの声が要る。
しかしこれは難しいことではないはずだ。それは満天下のアニメを愛する人たちがたった一冊の小説を読むというところから始められるからである。
そしてそれこそがまさに『デルタの羊』がこの世に産み落とされた意義であると、私は信じて疑わないのだ。
