1年遅れの記録 新国立劇場『デカローグ』
2024年の話である。
初台にある新国立劇場にはバレエをよく見に行くが、ここで初めて芝居を見た。1996年に54歳で死去したポーランドの映画監督、クシシュトフ・キェシロフスキが80年代に制作したテレビドラマのシリーズ「デカローグ」を舞台化したものだ。上演は2024年4月から7月までだった。
ずっしりとした静かな感慨を与える作品で、見終わったあとに少しずつ良さが染みわたってくるものだった。「感動」という言葉を使うと陳腐になるから使いたくないが。
「デカローグ」は、元々は10回シリーズに仕立てた連作のテレビドラマで、のちに一部が映画化された。1980年代後半のワルシャワの高層団地に住む人たちの身辺に起きる事件を旧約聖書のモーセの「十戒=デカローグ」のモチーフになぞらえながら描いていく。ユダヤ・キリスト教の神が命じた「十戒」に従いきれない人間たちの姿である。
デカローグという単語はギリシャ語由来のデカ=deka=10(“decade”もここから)、と「ダイアローグ」(2者による対話)でも出てくる「ローグ」、つまりロゴス、言葉の組み合わせである。
新国立劇場の上演は、全10回の1と3をAプロ、2と4をBプロ…というふうにしてAからEまでの5回のプログラムでシリーズの舞台にしたものになっていた。
芝居はふだん、歌舞伎以外はめったに見ることがないよく知らない世界であるのだが、見ようと思ったのは、キェシロフスキの作品だからだ。
ずいぶん昔に見た彼の三部作の映画、『Trois Couleurs』、日本名『トリコロール』がとても印象的だった。1990年代に発表されたこの三部作は、フランス国旗の3色である青、白、赤という色をそれぞれ映像モチーフに取り入れた3本の映画である。それぞれは全く別の独立したストーリーであるが、それぞれどこかでつながっている。たとえば第2部「白」の主人公の男(ポーランド人)が裁判所で離婚訴訟の弁論をする場面があるが、第3部「赤」で主人公の女性がその裁判所の廊下を通り過ぎると法廷から「白」の男の訴えが聞こえてくる、という具合である。そして第3部の「赤」の大詰めでまた大きなつながりが…という設計になっている。それぞれ別の人生が、知らずにどこかで邂逅する。こうした手法はシリーズものの映像作品に昔からあるのかどうか知らないが、初めて見たときは感心した。この全体設計の遊びも含めて、「人生とは…」を考え込ませてしまう力、深みを感じる作品なのだ。
そのキェシロフスキの出世作が、この「デカローグ」のオリジナル作品であるテレビドラマシリーズとその映画化だったことを初めて知った。「別の物語の人物がどこかで接続する」という手法も、すでに使われていることが今回わかった。
舞台セットはそれぞれ若干違うが、登場人物たちが住む同じ高層アパートメントをイメージした2フロアをしつらえ、物語はその室内や屋外で繰り広げられる。以前ドイツに住んでいたことがあるが、旧「東ドイツ」や東欧諸国に普遍的に見られるあの社会主義国特有の団地群の風景が思い浮かんだ。日本の公営住宅も通じるものがある。舞台の背景や壁面には場面に応じてCGが投影される。
内容はというと、それぞれの登場人物たちが直面する個人的な事件を通じて、人間とは、人生とは、男と女とは、あるいは運命とは、さらに神とは、何だろうと考えさせる連作だ。
Aプロの1、つまりシリーズ第1回の「ある運命に関する物語」を例に挙げてみよう。数学の教授である男の小学生の息子が、父親に教えられてコンピューター(80年代の!コンピューターの画面は緑のモノクロで、舞台上の壁面に投影され、観客が内容を見ることができる。もっともポーランド語であるが…)を使って、身辺のいろいろな事柄を計算して予想することに熱中しているが、その計算結果を現実が裏切る悲劇に見舞われるというストーリーである。
だからと言って、このお話は「コンピューターは複雑な人間社会の現実を正しく計算して予測はできない」という類の単純なメッセージを語るわけではない。それはそういうことだったのだ、としか言いようがないドラマなのだ。
この第1回では劇中で「あなたは神を信じますか」というあまりにストレートな問いがなされる。ちなみに実はキェシロフスキらが10回シリーズの最後に書いた作品がこの第1回だという。高橋恵子が少年の信心深い叔母の役で出ていた。
またBプロの2「ある選択に関する物語」は、がんで重篤な状態の男の妻であるバイオリニストが、実は夫に知られず不倫相手の子どもを妊娠している。もし夫が死ぬなら自分は子どもを産むが、夫が生きるなら中絶すると言って、医師に「夫は死ぬのかどうか」を尋ねる。医師は第2次大戦で家族を失ったユダヤ教徒である。さてその結末は?というわけだ。医師の役は、NHKの2024年度大河ドラマの「左大臣」益岡徹だった。
Cプロの5「ある殺人に関する物語」は20歳の青年がタクシー運転手を惨殺して金を奪い、死刑になるが、死刑制度に反対する若い弁護士は裁判で彼を救うことができず懊悩する。青年は弁護士に、5年前にトラクター事故で妹が死んでしまった、それがなければこんなことにはならなかったと訴える。死刑執行の瞬間まで死の恐怖を叫ぶ。この話はやたらにまっすぐである。しかしまっすぐに受け取っていいのかわからない。
6「ある愛に関する物語」は天体望遠鏡でアパートの女の部屋をのぞいている青年がその女に誘惑される話で、これはだいぶストーリーがひねっている。
また全編を通して、神の代理人(天使?)と思える男が、それぞれの物語で浮浪者とか医師の助手とか建築労働者とか郵便局員とかとして登場し、事件の節目の場面で登場人物たちを見つめる。この天使?には台詞が振られていないために、いっそう謎めいた存在になっていて、何を考えているのかはわからない。
Eプロの9はインポ(テンツ)と診断された心臓外科医から離婚をほのめかされた妻が、夫婦はセックスだけじゃないと言って生活を続けようと言う。ところが実は妻は大学生と不倫の関係にあり、それが夫にばれる。2人は互いの過ちをさらけ出して再出発を図るが、さらにもう二転三転…という話。Eプロの10は死んだ父親が残した切手のコレクションがとてつもなく価値があるものとわかった兄弟の混乱を描く、少し哀しく温かいコメディである。
私の読解力のせいかもしれないけれども、作品はいずれも、どう解釈するのが正解なのかを提示せず、読者(観客)がそこに言葉にしがたい「人生の深み」を勝手に読み取るようにできているという感想を持った。
それも含めて各作品は、ヨーロッパ人の、なのか、あるいは東欧人の、スラブ人の、それともポーランド人のなのか、「人生というものの謎をめぐる哲学」とでもいったものが、全体を覆っているように感じ取れるのである。
私がBプロを見に行った日には偶然、上演後に俳優4人へのインタビューが中井美穂の司会で開かれたのだが、その際に近藤芳正は、シリーズの1が「10作の中で最も重い話」で、以後は徐々に明るい?作品も出てくるのだと言っていた。しかしキェシロフスキの作品は「重い」ことがつらくない。その「重さ」は見る者の心を押しつぶす重さではなく、繰り返して書くが、「人生とは…」と思いを致させる重厚さである。
ちなみにこの際の司会者、中井美穂が「キェロシフスキ」と言い間違えて気づかず訂正しなかったのを見て、やっぱり発音しにくいよなこの名前、とあらためて思ったのであった。
いやこれは…。
「人生」「愛」「神」「偶然」…まだこれから長い人生があるつもりの1人の若者に戻ったような感覚を久しぶりに思い出させた。おそろしい名作であった。
