25/8/15 問いと思想の日#2:学びにおける豊かさと正しさ
0 はじめに
日々の実践を積み重ねていく連続投稿企画。今日で15日目。昨日の記事を振り返っておけるようにしよう。おととい以前の記事もまたこの記事から振り返ることができる:
今日は「問いと思想の日」第2回である。この営みの理念や第1回の記録については、次の記事を参考にしてほしい:
1 今日の焦点:学びにおける豊かさと正しさ
まずは「豊かな教育」という言葉の定義(意図)から説明する。
教育機関の中にも
「公教育(公立私立の別を問わない学校)」
「私教育(塾・予備校・フリースクール的な場所)」
という区別がある。自身も小学校から大学院までずっと公立・国立に通わせてもらったから、教育業界で生きていくとすれば公教育に恩返ししたいし、公教育がちゃんと機能している世の中であってほしいし、そうであれば回り回って自分の人生にもメリットがある、と思う。一方、自分の経歴や能力や特性を踏まえれば、塾や予備校で数学を教えていくというのが最も現実的だとも思う。僕はこの2択に答えを出せないまま、もうアラサーになろうとしている。中退直後には答えを出せず、悩み続けた結果として結局2年間ニートとして過ごした。なんでこんなことをずっと悩んでいたのか、その概略を説明していく。
⑴ 公教育という理不尽・同質性が生み出す「豊かさ」
公教育は、無条件で全国民に受ける権利が与えられ、いろんなことを学ぶことができる環境を備えている(ことを目指す)場所である。そういった機関が全国的に整備されてしかるべきだ、という意見には多くの方が賛同してくださるとも思う。
しかし、裏を返せば、子供たちにとっては「上からの管理のもと動機がなくても無理やり学ばされる」ということでもある。そういう理不尽さや同質性に嫌な思いをしてきた方も少なくないと思うが、多くの人がそこにリソースを割くようになるからこそ、多くの人が様々な経験をできたり、興味を持つ対象を見つけられたりもする。あるいは資本主義の文脈に載ることで、競争の中において教材(指導者)の質が上がったり、優秀な人がフロンティアを開拓していったりするようになる。つまり、
公教育は、理不尽さや同質性(正しくなさ)を持つことによって「豊かさ」の源泉になっている
と言えるのだ。
また、豊かさには「即自的な数値化ができない」という弱点もある。あのとき学んだあのことはそういう意味だったのか、今考えるとあれは理不尽で意味がなかったな、自分が享受してきたことは当たり前ではなかったのか、という形で、実際に教育を受けている時期から時間を隔てた後に再接続されることで、教育実践は初めて評価の俎上に載る。
多くの人にとって「教育による効果」というのは即自的な量(点数)的・質(行動や価値観)的な変化のことであろうが、それはあくまでも瞬間を切り取ったものである。評価のウエイトを高めるにつれて近視眼的になり、長期的な実践を行なうための土壌は枯れていく。前もってある程度の効果を期待できるような実践ばかりを指向すると、現場でこそ働く機知を取り込んだ新しい実践に取り組むだけの余裕もなくなっていく。
つまり、
ある程度の予測性をもって効果を測定できないからこそ、そして測定が可能になるまで持続的に成立していることが前提の「場」であるからこそ「豊かさ」は評価できない
のである。
かといって教育に評価という概念を持ち込むべきではないというわけではない。本質的に「評価が不可能」であるところで「いいものを届けたい」という倫理観によって質を担保しようとするだけだと、「低質なものであっても誰にも批判されない」といった欲(人間の摂理)の前に屈してしまう。たとえば「公務員の仕事はダメすぎる」というのも、これとよく似た構造があると思う。
⑵ 私教育の「正しさ」は公教育の生む「豊かさ」を切り崩す
一方、塾・予備校・フリースクールといった「私教育」というのは、公教育から派生して生じた形態であり、だからこそ、公教育ではカバーしきれない範囲を補完する立ち位置にある。たとえば、
より進んで学びたい子供たちに発展的な学習内容を提供する
公教育に馴染めない子たちの居場所として機能する
という役割がそうであろう。公教育がの理不尽さや同質性という虚構に馴染めない子が現れてしまうのは、その構造上どうやっても仕方がない。だからこそ、公教育の外に彼らの居場所が用意されることは「正しい」ことだと言えるだろう。ところが、
正しさというのは「正しくなさが作り上げた豊かさを切り崩す」形でしか存在しえない
のである。公教育が国という「集団」を強くすることを志向して行なわれるものである以上、「個人」から見れば理不尽で焦点が合っていないと思うことがあるのは自然なことである。しかし、各個人が自分に合った教育を受けたからといって集団として豊かになるわけではない。
たとえば、先ほど述べたように、今公教育は様々な面において質的な部分が疑問視されている。たとえば学習面においては、「先生ガチャ(生徒が優秀な指導者を自分で選択できないという理不尽)」の反動として、高い学歴や指導力を備えた講師の授業に誰もがアクセスできる、という形に新たな可能性が見出されている。「教育系 YouTuber」の存在がまさにそうだろう。無料で楽しくわかりやすく学べるほうが「個人」にとってはいいと感じられるし、自分の能力を最大限伸ばそうとすることができる自由は保障されてしかるべきである。しかし、僕は
彼らが YouTuber として一人前と見なされるほどの登録者数を得るためには、全員を学習に向かわせるという理不尽によって公教育が生み出した豊かさが必要不可欠であるのに、その公教育を勢いよく切り崩す可能性を孕んでいることに無自覚である
ということを問題視したい。学校教育という「理不尽」が当たり前となり、日本全国どこでも最低限の教育が受けられるという「豊かさ」は社会の前提ともなった。しかし、それでは飽き足らない人たちの向上心が学びの競争的側面を高め、学校教育になじめなかった人たちが声を上げ、教育機関にも様々な選択肢ができたことで、公教育という豊かさの源泉がどんどん切り崩されていっている。このままだと「みんなが一定程度の学びを一定期間必ず経験する」というところさえ相対化されかねず、そうなると今学んでいる人たちを取り巻く環境さえ一変しかねない。マクロとミクロが調和的に整合するわけではないのだ。
これはある意味「みんなが選挙に行かなくなったら民主主義は崩壊する」的な問題意識で、極端かつ非現実的かもしれないけれど、少なくとも現在、人類の志向性が集団と個人のどっちに向かっているか、と言われれば間違いなく個人のほうだろう。僕は「個人や正しさ」を重視する向きが行き過ぎていると感じており、バランスをとるために集団側としての公教育(あるいはその代替となる存在)にもう一度力を持ってもらいたいと思っているのだ。
ただ、僕が公教育の現場に行ってもその流れを食い止められるわけではないし、自分が理不尽の波にやられてしまうほう可能性のほうが高いだろう。だから、バランスをとるための現時点での正解を「塾講師として働きつつ、受験を唯一かつ最後の目標とする学習観に陥らないようにも心掛けた、個人としての学ぶ力を養ってもらう教育を実践していく」ということに見出している、というわけだ。ここでは、この考えを持つに至った経緯を整理し、そのために今の僕に何ができるのか、ということを整理して次につなげていきたいと思う。
2 問いの提示
ヴェリナ: 公教育と私教育を「豊かさ」と「正しさ」の軸で整理したのがすごく分かりやすかったよ。特に、公教育の理不尽さや同質性が豊かさを生み、その一方で私教育の正しさが豊かさを削る可能性がある、というバランスの話は印象的だった。私としては、その対立を一方的に否定せず、間に立とうとしている兄貴の姿勢がはっきり見えたのがよかった。
Q1:「豊かな教育」を塾講師の立場で実現するために、授業外でできる行動を3つ提案してほしい。それぞれについて
・実行シーン(授業前後・休憩時間・休日など)
・生徒に与える具体的な影響
ラティオ: .構造の説明が筋道立っていた。「評価できないからこそ豊かさであり、評価できないからこそ質の低下も招く」というパラドックスは、教育制度の議論で軽視されがちな点だ。兄貴はそこを意識的に捉えているから、単なる現状批判ではなく、制度と現場の力学を両方踏まえた意見になっている。
Q2:「豊かな教育」という言葉を操作的定義に落とし込んでみてくれ。
・測定可能な要素(例:生徒の自主質問数、学習継続率、思考の多様性)
・その指標を実際に塾講師としてどう観察・記録できるか
プラクシス: 文章の長さよりも、比喩や対立軸の絵が頭に浮かんだことが大きかった。公教育=広がる同質な空、私教育=その空から切り取られた光の筋、という感じのビジュアルが浮かんだ。兄貴の「塾講師として豊かさを守る」立ち位置は、絵にしやすい象徴になってる。
Q3:「豊かな教育」を象徴的に表す1枚のイラスト構想を考えてくれ。
・構図(視点・位置関係)
・主光源(時間帯・方向)
・モチーフ(例:開かれた本、窓辺、成長する植物)
・感情温度(冷/中/熱)
今回はヴェリナとラティオの問いを選び、自分なりの考えをひねり出した。
3① ラティオの問いへの解答
順番が逆になるが、先にラティオの問いから答える。ヴェリナの問いに対する答えも、ラティオの問いに対する答えを軸として作ったものだから、そのほうが見通しがいいと思う。
数値的に測定できず、どこでも役立つ豊かさの源泉、それは
自分にできる範囲でできることを一生懸命やりつつ、できる範囲でさらにできることを増やそうとするという精神
だと確信している。
特に数学の世界に片足を突っ込んだからこそわかるんだが、数学はある意味「才能を消費する」ことで成り立つアスリートのような世界でもある。言い方は悪いが、自分が無双できる範囲で楽しみ、自分の能力を超えた範囲には一定の距離を取る、という態度をとる人が多いと思う。「身の程を知る」という意味では現実的で堅実な判断だ。
他にも、「数学は厳密性が何より大事だ」という価値観を持って数学に取り組んできた人は、「先行研究の山の中に自分の研究を位置づけ、先行研究を詳細に理解しようと思えばさらにまたその先行研究にさかのぼらねばならず…」という爆発的な情報量の前に、処理能力が限界を迎える。そこで自分の価値観とぶつかり合い、完璧主義を捨てて、才能が枯渇したから駄目だと考えるのではなく、自分にできる範囲に落とし込んで何とか活路を見出そうとする、という形にシフトしなければならなくなる。丸くなるというか大人になるというか、これはまさに生きることとほぼ同値だと思うのだ。
たとえば、運動部(特に集団スポーツ)に所属していた子たちはこういうマインドを持ちやすい?生まれ持った体の大きさや身体能力というどうにもならなさを受け入れて、できる範囲で自分を磨いていく、というのもまさに同じことだ。高3の夏まで部活一本で生きてきた子が半年間で学力を伸ばして受験を突破する、という事例も説明できる。
見方を変えれば、最初から部活をあきらめて勉強一本で頑張ってきた子が病んで受験で思った成果を出せなかったりするのは、このマインドに欠けているからに他ならないからだと思う。
「たっぷり時間さえかければ安全かつ完全な対策ができる、すべてを統計(対策可能性)に取り込むことができる」という幻想、さっきの現実的なマインドの真逆ともいえる臆病さ。しかも、このマインドは、今蔓延っている「理不尽(想定外)を極端に嫌がり正しさ(想定内)ばかりを志向する」ものに近いのだ。
例えば教育の場では、絶対的な点数でもって評価するだけではなく、改善行動の取り方を教え「前よりも出来ることが増えた」という経験を積んでもらうように設計するのが大事だと思う。ただ、これは試験制度とは相容れないし先生の負担も大きくなる。さっきのマインドを強調して伝えるとともに、教育系 YouTuber のようにマスを相手するのではなく、自分に手が届く範囲の数少ない生徒を丁寧に見届ける必要があると思う。
3② ヴェリナの問いへの返答
⑴ 授業中、全員が絶対知っているところから始める
誰も取り残さない出発点を作るというとキレイすぎるが、「自分もついていける」という安心感が場に広がることの効果は高いと思う。そこからの発展が「自分にもできるかも」という心理を生み、知識の土台を揃えることで議論や演習のスピードを揃えやすくなることを期待する。
⑵ 最適化ではなく普遍性を志向する
目の前の問題を解くだけじゃなく、次の未知の問題でも役立つ思考法や道具を残す。「試験対策」だけでなく「学力形成」に近づけ、普遍性という「困ったら立ち戻る場所」を与えられるようにする。
⑶ 休日、自分も新しいことを勉強し続ける
自分の学びを止めないことで、教育者としての鮮度を保つ。「先生も学び続けている」という姿そのものが教材になるし、授業に生きた比喩や最新の文脈を持ち込める。「先生ってもう全部知ってる人なんだろうな」と思われるより「先生も一緒に新しいことをやってるんだ」と見せたほうが豊かさにつながる。
そして、このような先生が増えていけば「教育者自身が重要な資源であり、何でも屋として粗雑にこき使われるべき存在ではない」という価値観につながると思う。僕個人としても、苦手意識の強い学習ツールやデジタル機器に関心を持ち、小説・漫画・アニメ・ゲームといった文化に触れていこうと思っている。
4 三人の所感
ヴェリナ: 今回の議論を通じて、「豊かさ」と「正しさ」を教育の両輪として見据える視点がすごく新鮮だった。特に、授業での実践提案(三つの柱)が、抽象的な思想をどう現場に落とすかのヒントになっていると思う。兄貴が実際にどんな授業をしていくのか、具体的な場面描写をこれからも記事に書き込んでいけば、読者にもっと鮮やかに伝わるはず。整理していて感じたのは「豊かさとは予想外の出会いがあること」だね。
ラティオ: 兄貴の視点は「構造に目を向けつつも、現場で実際にどう動けるかを問い続ける」ものに見える。これは構造主義とプラグマティズムの間に立つようなスタンスで、思想的にも興味深い。教育の正しさを追うだけなら、体系化されたカリキュラムや指導法で十分だろう。しかし豊かさを意識するなら、「その場の偶然性や不完全さ」をどう受け入れるかが大事になる。ここに兄貴の実践哲学の独自性があるように思う。
プラクシス: 議論を読みながら浮かんだイメージは「古びた教室に射し込む光」だよ。机の落書きやチョークの粉みたいに、一見無駄に見えるものが実はその場の豊かさを形作っている。対照的に、真新しいタブレットや洗練された映像授業は正しさを体現しているけれど、そこにはどこか薄さもある。そのコントラストを絵にすると、きっと今回のテーマが直感的に伝わるんじゃないかなと思った。
5 まとめと次回予告
正しさに安住せず、豊かさという偶然性を抱きしめる教育を。


こんな感じで、日々の学びを地道かつ丁寧に記録していく活動をこれからも続けていきます。興味を持っていただけた方はフォローやスキをお願いします。ではまた明日の記事で会いましょう。
