木更津神社巡り -飽富神社-
前回に続いて木更津の神社巡りです。
今回の参拝先は飽富(あきとみ)神社です。
先に参拝した率土神社との関わりが深く、神社名である「飽富」という地名の起源となった伝承がありました。
この神社の成り立ちも色々と引っかかるところがありました。
多氏のルーツと式内社の格式
この神社の名称は、伝承に基づく単なる古い呼び名というだけでなく、氏族のルーツ、国家的な格式、そして文字の変遷という3つの重要な歴史的文脈を象徴しています。
1. 古代豪族「多氏(おおし)」のアイデンティティ
「飫富(おお/おふ)」という名称は、この地を拠点とした古代の中央豪族「多氏(おおうじ/おおし)」またはその支族である「飫富氏」に深く結びついています。
• 祖神の奉斎: 多氏(意富氏、飫富氏)は、神武天皇の第一皇子である神八井耳命(かむやいみみのみこと)を祖としています。この一族が自分たちの祖神を祀るために創建した神社であるため、氏族の名を冠して「飫富神社」あるいは「飫富宮(おふのみや)」と呼ばれました。
• 大和との繋がり: 「飫富」の本貫(根拠地)は大和国十市郡(現在の奈良県)にあり、そこには多氏の拠点である「多坐弥志理都比古神社」が存在します。上総の地に「飫富」の名があることは、中央の有力氏族がこの地に進出し、自らのアイデンティティをこの神社に刻んだことを示しています。
2. 国家が認めた高い格式(式内社)
「飫富神社」の名は、平安時代の公的な記録において、その格式の高さを証明するものとして登場します。
• 延喜式の記載: 延長5年(927年)に完成した『延喜式』神名帳には、上総国望陀郡の一座として「飫富神社」の名が記載されています。これは、当時の朝廷から「官社(式内社)」として認められた由緒正しい古社であることを意味します。
• 君津地方唯一の存在: 君津地方(旧望陀郡)において、この神名帳に名を連ねる「式内社」は飫富神社(現・飽富神社)のみであり、地域において類を見ない歴史的価値を持っています。
3. 歴史の中での名称の揺らぎと変遷
「飫富」という名前は、後世に「飯富(いいとみ)」や「飽富(あきとみ)」へと変化していきますが、その過程には「文字の誤伝」と「伝説の付加」という文脈があります。
• 写本による誤記: 古い辞書である『和名抄』の写本などで、本来「飫(おふ)」と記すべきところが、字の形が似ている「飯(おふ/いい)」と書き間違えられたことが、「飯富」という表記が生まれた一因とされています。
• 信仰的な再定義: 「飯(めし)」という字が定着した後に、さらに「神様が食事に満足した(飽いた)」という伝説が結びつき、現在の正式な社名である「飽富(あきとみ)」という表記に繋がりました。
「飫富神社」という旧称は、飽富神社がかつて皇別氏族の筆頭である多氏の氏神として、また国家的な祭祀の対象(式内社)として、上総国において極めて重要な地位を占めていたことを物語る、最も根源的な名称であると言えます。

祭神 倉稲魂命と歴史の変遷
主祭神である倉稲魂命(ウカノミタマノミコト)は、この神社の「現代的な役割」と「歴史的な変遷」の両面を象徴する存在として語られています。
1. 農業神としての現代的アイデンティティ
飽富神社の現在の主祭神は倉稲魂命であると明確に記されています。
• 神格: 倉稲魂命は「稲の神」すなわち「農業神」であり、古くから農民の厚い信仰を集めてきました。
• 伝統行事との結びつき: 神社で現在も行われている、作物の豊凶を占う「筒粥神事」(県指定無形民俗文化財)や、稲の豊作を祈る「お田植神事」などは、この農業神としての信仰に基づいた重要な行事として位置づけられています。
2. 社名「飽富」の由来に関わる伝説
「倉稲魂命」という神名は、神社の現在の名称である「飽富(あきとみ)」という表記に深く関わっています。
• 伝説の内容: 祭神がこの地に到着した際、空腹であったところに土民が「麦こがし」を献上しました。
• 「飽」の字の意味: 祭神がその食べ物で飢えをしのぎ、十分に「飽(あ)いた(満足した)」ことから、これまでの「飯(めし)」という字を「飽(あく/あき)」に改めさせたという伝承があり、食を司る農業神としての性質が反映されています。
3. 歴史的な本来の祭神(神八井耳命)との関係
興味深いことに、「倉稲魂命」を現在の主祭神としつつも、歴史学的な視点からは「後世に付け加えられた神名」である可能性を指摘しています,。
• 本来の祭神説: 多くの識者や歴史資料(『特選神名牒』など)は、この神社の本来の主神は創建者とされる神八井耳命(かむやいみみのみこと)であると述べています。
• 多氏の祖神: 神八井耳命は、この地に移住した古代豪族「多氏(飫富氏)」の祖神です。そのため、「飫富(おお/おふ)神社」という旧称から考えても、本来は一族の先祖を祀る神社であったのが、後に文字の連想(飽富=飽き足りるほど富む)から農業神である倉稲魂命へと祭神の解釈が変化したと推測されています。
4. 他の神々との共存(相殿)
現在の祭祀体系において、倉稲魂命は単独で祀られているわけではなく、他の神々と共に奉斎されています。
• 相殿神: 倉稲魂命と共に、神八井耳命、そして大己貴命(オホナムチ)、少彦名命(スクナヒコナ)が並び祀られているという記述が多く見られます。
飽富神社が「多氏が祖先を祀る聖域」という古代のルーツを持ちつつも、時代を経て「地域の農業と繁栄を守護する農業神の社」として再定義され、人々の生活に根ざした信仰の形を確立していった過程を示していると言えます。

ここからは勝手な個人の妄想ですが、この神社の主祭神が神八井耳命ではなく倉稲魂命となった背景には別に思う事があります。
この木更津の神社を調べていて思ったのは、歴史が古くて追えてないということもあるでしょうが、祭神や伝承を隠す、誤魔化している、創っているように思いました。
なぜ、それをする必要があったのでしょうか?
この飽富神社のことで思い出したのは、鹿島の大生(おおう)神社です。大生神社の伝承には中臣氏との主導権争いがあった事が示唆されています。この大生神社は多氏の神社ですが、武甕槌神(たけみかづち)が主祭神として祀られています。ところが、茨城の笠間市にある大井神社は神八井耳命が祀られており、水戸市の大井神社は仲国造の祖である建借馬命(たけかしま)が祀られています。この建借馬命は神八井耳命を初祖とする多氏系統です。
つまり、多氏系の神社は中臣氏の影響が弱いところは多氏系統の神が祀られており、強いところは祭神の変更が行われたように思えるのです。素直に考えれば自分の氏族の祖もしくは英雄を祀る方が自然なことと思いますので、大生神社で祀られている祭神は元々多氏系の神が祀られていたと思います。なぜなら大生神社の勧請元と言われる奈良の多坐弥志理都比古神社(おおにいますみしりつひこ)の祭神に武甕槌神はいません。
個人的に武甕槌神の神話は、日本武尊神話と同様東国平定で活躍した武将の英雄譚をまとめたもの、または活躍した者への称号と考えています。ヤマト神話に合わせるため都合良く創られた神さまだと思います。
ヤマト神話に合わせるということ、それはつまり中臣氏(藤原氏)の正統性を説いた記紀神話に合わせるということです。
「タケミカヅチ」という言葉の意味を考えると、
「タケ」・・・猛々しい・勇猛
「ミカ」・・・威厳・神聖な力
「ヅ」・・・~の
「チ」・・・力・エネルギー
「猛々しさと神聖さを持つ力」と解釈できます。武葉槌命、建借馬命、天富命など東征で功のあった人をまとめて最高神格の神さまを作り上げた、なんてことを妄想します。
この房総と常陸には多氏と忌部氏の痕跡が少なくありません。両氏族ともこの太平洋に面した房総半島から常陸を開拓したと言われています。多氏は最古の皇別氏族、忌部氏は祭祀担う神別氏族です。中臣氏(藤原氏)が主導した記紀の歴史観とは異なるものを知っていても不思議ではありません。皇別氏族というハイブランドな血統をもつ多氏、大和政権で祭祀を担う神別氏族の忌部氏は天下を狙う中臣氏にとっては目障りでしょう。
また、現代風に言えば房総、常陸の巨大な利権の独占を狙い、先に権益を持っていた両氏族は中臣氏にとって邪魔な存在だったのかもしれません。
中臣氏の天下とするためには、
正統性の確保・・・記紀の歴史感ゴリ推し
権益の独占・・・経済の強化
祭祀の独占・・・宗教の統一
が、必要と思います。
ただ、中臣氏も神別氏族です。なぜここまで排除するのでしょうか?
※もしかすると、中臣氏は出自をでっち上げたのでしょうか?
排除が完了すれば、さらなる中臣氏のハイブランド化が進んでいきます。
中臣氏(藤原氏)の影響が強い房総や常陸の神社は痕跡をなくそうというものが伝承や祭神からわずかに読み取れます(個人の思い込みですが)。
こんな妄想を飽富神社で思いました。

いいなと思ったら応援しよう!
よろしければ応援お願いします! いただいたチップはクリエイターとしての活動費に使わせていただきます!