「G」
「ジャビット狩りのときの話なんですけれども」
最後の一人が語り始めた。張り詰めていた空気がわずかに緩む。
車座になった我々はすでにそれぞれ持ち寄った怪奇話を披露していた。わたしは合わせ鏡越しに死臭猿と目が合った話を終えて、そのあとは肩の荷が下りて、むしろ眠いくらいだった。
それでもジャビットの一言で、ぎん、となった。ぷしゅぷしゅ音がするなと思ったら自分の鼻息だった。でもそのことについて気に留める面々はいなかった。
目の前で静かに炎が揺らめいている。やけに火の色が赤く映える。
「仮に主人公をGとしておきましょう、Gは高校のときからいわゆる変人、というのか、ひどく変わっていました。学校指定の英和辞典ではなく、真黄色のものを持っていたんです、全然見たことのない、ポルピーノ、みたいなメーカーのものでした、それを鞄に入れず、いつも小脇に抱えていました。『俺の辞書にジーニアスという文字はない』というのが口癖でした、いや、実際にそれを常に口にしているわけではありませんでしたが、ともかく、そういう男なのでした」
ああ、その仮名、ジーニアスのGなのだ、英和辞典、たぶん、ジーニアスだったんだろうな、いや、ジャビット狩りと関係あるからGなのか。
わたしは小さく鼻を鳴らして、すっと息と唾を飲んだ。
男はゆっくり見回して、それから頷いた。
「Gは一度もその黄色い辞書を開きませんでした。中身を見せてみろ、とクラスメートに迫られても頑として拒否します、力づくで奪い取ろうとしても無理でした、とにかく異様な脇締め力なのです。そのうちに誰もが諦め、ただ、ジーニアス崩れ、と呼ぶようになりました、そして、Gは黄色いあれを小脇に抱え続けました」
わたしは死臭猿の内容がどんどん恥ずかしくなってきていた。もちろん作り話だった。最後に猿が、きい、と鳴くか、ぎゃお、と鳴くか、でずっと悩んだ挙句、本番では、どぅん、と変えてしまって、それでなぜか、周りにぞわっとした空気が広がったことで、すごく申し訳ない気持ちになった。そんなことを思うのはこの集まりに出て初めてだった。
「まあ、Gは一度、廊下ですっ転んで、黄色い辞書を落としてしまうのですが。その場に居合わせた生徒の話によると、Pのページが開いて、『popstar』の文字にぐりぐりに太い赤線が引いてあった、というのですが、これはたぶん、内容的に盛られたものだと思います」
この男を見かけたことはなかった。わたしは二回に一度くらい参加するくらいなので、入れ違いで彼も会に顔を出しているのかもしれない。いずれにしても、その語り口は異質だった。わたしだって上手なほうではないけれど、いきなり、「○○の話なんですけれど」みたいは入り方をしない。それに、学生時代の話が導入部だとしたらちょっと長すぎる。
男が咳払いをする。それにつられて古参のシマさんも、けふ、と続いた。わたしの鼻息はまだ荒かった。
「そんなGとは卒業以来一度も会わないまま、ジャビット狩りで出会いました。昨年の晩秋のことです」
再び周囲の空気が緩み、淀み、音になりきらないざわつきが広がり始める。何当たり前のようにジャビット狩りとか言ってるんだ、そっちのほうの説明しなさいよ、ポップスターがどうとかどうでもよくない?
「山に入ってすぐにGから声をかけてきました。ひさしぶりだな、紅白饅頭ひび割れ男。なつかしい呼び名に、思わず胸が高鳴りました」
もうまるで頭に入ってこない、状況が。いや、いろいろ入ってき過ぎてバグったような感覚になっている。男の声だけがやたらといいことに気づく。
「あのな、とGが言います。俺についてこいよ、すぐにジャビット狩れるから、ジャビット、狩りたいんだろ、昔からそういうタイプだったもんな、ひび割れちゃんって」
男の顔が赤くなる。どの部分に照れているのだろう。
「嗚呼、まさにGの言う通りなのでした、私は、これまで一度も狩ったことも、それどころか山に入ったところで、ジャビットの姿を見かけたこともなかったのでした、Gの甘言に乗せられ、ついていきます。Gは山を登っていくわけでもなく、ぐるぐると平地を歩いています、足元は枯れ葉で覆い尽くされ湿っていて、山の上方では、かけ声や銃声、別の動物たちの鳴き声が聞こえてきます。私は焦燥しながら、Gの顔をうかがいます。Gは平然と口笛を吹いて歩いています。ときどき、なつかしい学生時代の思い出話も口にします。私はほとんど覚えていませんでした。一度、辞書の話をしようとしたところで、Gは黙り込み、視線を逸らし、ため息をつきました」
各自、それぞれに飲み物を用意しているのだけれど、男はペットボトルのキャップを回し、ごくごくと半分くらい一気に飲んだ。なんだかわからないグレープジュースみたいな色の飲み物だった。
「ぴたり、とGが足を止めます。私の顔を見て、うなずきます。くい、と顎先を前に出します、それが示すところを見ましたが、何もいませんでした。しかし、Gは一気に駆け出します、私はあわててついています。ぐんぐん速度を上げたGから遅れ、息が上がり、足もうまく回りませんでした。一瞬、姿を見失ったあと、それでもなんとか近づくうちに、Gの後ろ姿が見えました。何やら、オレンジ色の物体を地面に倒し、それに覆いかぶさっています。おい、紅白饅頭、ジャビットだぞ、Gが叫びました」
男はここでジップアップタイプのパーカーを脱ぐ。ジャイアンツのユニフォーム姿だ。なぜか、この話は本当なのかもしれない、という変な説得力を感じた。背番号が見たい、と思った。あまり選手のことは知らないけど、彼が誰の名を背負っているのか、知りたかった。
「Gの大きな身体の下にはジャビットがいました。オレンジ色の耳、黒い帽子、そして白いユニフォーム。確かにジャビットです。山の中でついに生きた姿を目撃することができ、私は大変感動していました、同時にGを畏怖してもいました」
男が額の汗を拭う。それがジャイアンツの公式ハンカチだと気づいた面々が、まあ、と声を漏らした。
「おい、饅頭、ジャビット、脱がすぞ。Gがこれまでにない低音で囁きます。私は思わず周囲を確認しました。そんなことが許されるのかい? と私は恐る恐る尋ねました。許されるとかの問題じゃない、やるんだよ、とGは言います。言いながら、すでにそのオレンジの皮を脱がしました。それはさほど抵抗なくするりとむけました、そのように私には見えました。中には上半身裸の男がいました」
ユニフォーム姿の男が円を作るわたしたちの顔それぞれを確認するようにゆっくりと見つめてくる。
「その背中には、なんと、トラのタトゥーがあったのです」
男が両手をつき、深く丁寧に頭を下げる。え、これで終わりなわけ? わたしはなぜか寒くてたまらなかった。肌という肌がぞわぞわしていた。風もないのにろうそくの炎が消えて、あとから、ふっ、と息を吐く音が聞こえた。
