檸檬 lemon
DON齋藤
散文写真
蟻がな、蟻がCANNAの茎を登ってゆく。ゼイゼイと息も絶え絶えの様子ながら、時々、思案に暮れるかのように歩みをとめる。蟻は頭にせり出したアンテナでなにかをキャッチしたように、アンテナを揺すりながら右往左往はじめる。「もっと上かも知れんなあ」蟻はとうの昔に発揮した軽い身のこなしを思い出す。とはいえ背筋の衰えは隠しようもなく、加えて老いからくる視力の低下から、その錆びついたアンテナだけが頼りだった。それでも蟻は信じていた。衰えを知らなければCANNAの存在さえも気づくことはなかった。
CANNAは南米原産の球根植物で真夏を象徴する花として知られている。花も葉も大ぶりでトロピカルな雰囲気が際立ち強烈な陽射しにも負けないことから情熱の花、妄想の花とも呼ばれている。CANNAの語源は葦をあらわすラテン語で、葦と同様に水辺を好み、茎は空洞形状になっていて、真夏の燃え上がるような赤色の花びらは大地に沁み込んだ血の色とも云われ、盲目的な危険も孕んでいる。
蟻たちの間では悪魔の植物と恐れられ、灼熱の花びらに触れれば忽ちにして身体の自由を奪われ空洞の奥深くにのみ込まれ、すべからずCANNAの色鮮やかな花びらの糧になると云うのだ。伝承や迷信であるにせよ、若い蟻たちがCANNAに近づくことはなかったが、老いを感じる者たちは、次に芽生える球根からの転生を夢見て旅立つ慣わしに従った。
「もっと上かも知れんなあ」と言ったその時、老いた蟻は前足に円い透明な球体を捉えた、捉えたというよりも前足に球体が近づき貼り付いたともいえる。シャボン玉に似た透明な球体に顔を近づけると表面に自らの顔が映っている、背後には青い空とCANNAの葉が微風に揺れている。蟻はもういちど自らの顔をのぞき込んだ、蟻はのぞき込んだ自らの顔をじっと見つめた。じっと…見つめた。いくつかの夜が来て、いくつもの昼が駆け抜けて行った。古いアルバムの、すこし黄ばんだ写真、そのたびに記憶が来ては流れた……。老いた自らの顔の皺が消えて行く、皮膚のたるみが引き締まって行く…いつしか青年期の顔がそこにある。蟻は若い頃、禁断のCANNAの木陰で恋に落ちた、叶わぬ恋だった。蟻は今日の今日まで、若き日の行動を、若気の至りと思っていたが、球体に映る若き日の手さぐりで試行錯誤する自らの姿に微笑んだ、想い出は何があっても無くなる事は無い…。球体を抱えながら「もっと上かも知れんなあ」そう呟くと、さらに茎を登りつめた。葉脈をたどりながら、くるっと身体をひるがえし、葉の表面に出るとそよ風が全身を包んだ。茎はいよいよ先端にほど近い。蟻は思った、他のものに理解を求めない、自分自身が納得すればいい、それが私の人生なのだから……。空が拡がった、眩しい逆光のせいで花びらは黒い陰となって現れた。最期の力を振り絞り、花びらに手をかけて身体を素早くひるがえす。蟻は絶句した、CANNAは赤い花びらではない、黄色い、眩しい、鮮やかな檸檬!
