【不安がなくなるエッセイ】心の解凍【第0回】
まいど!曇戸晴維です!
突然ですが、世の中には不安なこと、わからないこと、疲れることがたくさんあります。
でも、大人になってしまうとなかなか本音で感情を表現することが出来ません。
ときには疲れ果てて選択すら取れないときもあります。
ときにはその不安をかき消すために怒りで表現することもあるでしょう。
私たちはそのとき、感情に蓋をしてしまいます。
自分の心から目を背け、自分がなにを感じているのかわからなくなります。
そうしているとどうなるか。
どういう人がそうなってしまっているか、考えたことはありますか?
心が凍てついてしまう
自らがピエロになり、人を笑わせているつもりで苦笑されている人。
そういう喜びの表現だけをしている人を見たことはありませんか?
なにかと機嫌を悪くして、意見や要望を押し通している人。
そういう怒りの表現だけをしている人を見たことはありませんか?
自分は不幸だ、可哀想だと不幸自慢ばかりしている人。
そういう哀しみの表現だけをしている人を見たことはありませんか?
今が楽しければそれでいい、楽さえできたらなんでもいいと人を巻き込んでいる人。
そういう楽しみの表現だけをしている人を見たことはありませんか?
彼らは本当に喜び、怒り、哀しみ、楽しんでいるのでしょうか。
その心の奥底にあるのは、きっと違いますよね。
それでも、そうするしかなかった状況、他を知りえなかった環境、そういうものがたくさんあります。
複雑に絡み合って、何年も時間をかけて、また絡み合っていくのです。
わかりやすく言ってしまうと、これらは不安の積み重ねです。
最初はひとつの不安から始まっているのです。
わかりやすい例:子どもと親
例を出してみましょう。
人は生まれたときから保護者に守ってもらうための本能を持って生まれます。
赤ちゃんのときはこれが顕著です。
赤ちゃんが持つ特定の行動やかわいらしい特徴は人類が長い進化の歴史を経て得た生存戦略なのです。
そしてそれは周囲の保護者の父性や母性に訴えかけます。
赤ちゃんのうちはわかりやすい行動しか取れません。
快・不快を笑う・泣くでしか表現できませんから。
ところが少し成長をしてくると選択肢が増えます。
例えば、子どものときに親から怒られた、など。
「叱られた」ではないです。
「怒られた」ことがポイント。
つまり、負の感情を強くぶつけられた。
もっと言えば、子どもですから心の強度は高くありません。
その容量を大きく超えて負の感情をぶつけられたら、その子はどうなってしまうでしょう。
まずはびっくりして思考が止まるでしょう。
そして不安でいっぱいになるでしょう。
次は一体どうなってしまうか。
戯けて、親の機嫌を取るかもしれません。
怒って泣き叫び、親の怒りが過ぎ去るのを待つかもしれません。
逆にめそめそしくしくと泣き続け、親が折れるのを待つかもしれません。
知らんぷりで無視をする子もいるでしょう。やがて、親はけろっと機嫌を直しているかもしれません。
これは、子どもなりの処世術です。
負の感情をぶつけられたパニックから導き出した最適解なのです。
「保護者に捨てられるという不安」という不快を取り除くための行動です。
親は、それを見て己の行動を省みます。
反省し繰り返すことはしないように留意するでしょう。
どうしたらいいか考える人も多いと思います。
ですが、これを何度も何度も繰り返す親も稀にいるでしょう。
するとどうなるか。
わかりやすい例:子どもは学ぶ
戯けておけば、親の機嫌は良くなる。
怒り返せば、親は言うことを聞いてくれる。
泣いていれば、親がなんとかしてくれる。
楽観していれば、不快なことをしてくる親はどこかにいく。
それは不快を排除するための行動としてしか機能せず、感情はありません。
これを繰り返して行くと心が、喜怒哀楽が凍りついてしまうのです。
何も親子に限ったことだけではありません。
友人、恋人、兄弟、親戚、級友、教師、同僚、上司、近所の人、ありとあらゆる人から影響を受けます。
最初のひとつへの対処、それがまかり通る限りそれを続けます。
そしてそれは時を経て凝り固まるのです。
これはかなり極端な例です。
人は誰しも心に凍りついた部分を持っている
それは性格として、不得意な分野として現れます。
多くの場合、生きていくことに支障はありません。
多少、人に意見を言うのができなかったり、短気だったり、呑気すぎたりするからといって生きるのに問題はないのです。
多くは、そういう性格、として認識され終わってしまう。
そして自分の本当の感情は友人や家族はおろか、自分にさえ見つけ出すことができなくなるのです。
きっとこれを読んでいるあなたにもそういうところがあると思います。
私にだって、もちろんあります。
冬の雪が春の温かさで溶けるように、凍てついた感情は人の温もりに触れて溶け出します。
溶け出して溢れた不安を素直に、悲しかった、辛かった、怖かったと吐き出し、自分で受け止めてはじめて前に進めるのです。
人生はその繰り返しなのです。
きっとこれを読んでいるあなたにもそういう経験があるでしょう。
私は、ゆっくりと思い返すことでたくさん見つけました。
中には思い悩んでいる人もいるでしょう。
重なり続け、ひどく落ち込み、うつや不安症、障がいにまで発展してしまうケースも多くあると思います。
凍てつき続けた不安は、どんどんと凍り、重なり、永久凍土のように封印されてしまう。
私も、その一人です。
私たちはひとりではない
みんな違う性格や特徴を持っていて、人の心を持っています。
温もりに触れて凍てついた心が溶けていくように、私たちも温もりを与え合うことができます。
そうしていれば、不安の多い現代社会が少しはましになると私は本気で思っています。
誰かは甘っちょろい戯言だと切って捨てるでしょう。
誰かは若気の至りのような舐めた発言だと怒るでしょう。
誰かは非現実的で実現不可能だと笑うでしょう。
私は、そういう人こそ、温めたい。
そして、それらはやらない理由にはならない。
だから、私から始める
と、啖呵を切ってみたものの私にやれることは多くありません。
なにせ、専門家でもカウンセラーでもないのですから。
ただの一般人に過ぎない私ができることは、私を通して自分を見つめ直してもらうことだけです。
そして、それこそが一般人である肩書きのない私にしかできないことであると思っています。
私のできることは大きくわけて3つ。
1つ目。
私自身や、私の人生で出会った人たちは、なにが不安なのか、不安だったのか話すこと。
2つ目。
私自身や、私の人生で出会った人たちは、どんな悲しみや痛みをいつ認識したのか、それをどう乗り越えたのかを話すこと。
3つ目。
あなたの心を紐解くためにコミュニケーションを取ること。
そのために、エッセイを書きます。
私は、これしかできません。
そして私はこれが人が少しでも幸せになることだと思っています。
あなたを救うのはあなたです。
私がなぜ自信満々に言い切ることが出来るのか。
それは次回、お話しましょう。
曇戸晴維でした。
