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【短編小説】Side A/Side B ──秘密は、ソファの右側で眠っている


あなたの隣にいる人を、
ちゃんとみつめたのはいつですか?
──語られなかった想いを、ふたりの視点から描いた短編小説です。



side A

数日前に、「長崎ちなみ」から「大崎ちなみ」になって、私は名実とも東京の人になった。

漢字一文字変わっただけなのに、結婚にともなう戸籍や免許証、アドレス変更、社内メールの署名変更など地味に作業が多く、想像以上に面倒で、「結婚は手続きが大変よ」と笑っていた先輩たちの言葉を身をもって実感している。
でも私は、“誰かと一緒に生きていく”ことに憧れていたし、だからこそ、その手間すらいとわなかった。

そんな春の午後、桜が散った頃。
スマホに、かつての恋人・大輔からのLINEが届いた。

『この前誕生日だったよね。おめでとう。ちなみにとって良い一年になるといいね。元気にしてる?』

彼とは2年ほど付き合った。
バツイチで結婚にいつまでも慎重だった彼に、家庭という形を望んだ私は、なかなか折り合いをつけるのが難しくて、最後は私から渋谷のカフェで別れを告げた。あの日、コーヒーがいつもより苦く感じたのを覚えている。
泣いて泣いて、職場でもうっかり涙が馴染む日もあった。人体は水分でできていると実感するほどの日々を過ごしていた。

でも今は違う。左手薬指のリングを、おまじないのように指先で確かめる。

『ありがとう。お互い良い人生にしましょう。』

何度もメッセージを変更しては戻してを繰り返し、私はその一言を胸の奥の深いところから、絞り出して送った。

「ちなみー!」

夫の声がキッチンから聞こえてきて、私の心臓はどくん、と音を立てた。なんてタイミング。スマホを手にしたまま、リビングへ向かう。

キッチンからは、夫、聡くんが淹れたばかりのコーヒーの香りが漂ってくる。大輔と別れた日に飲んだコーヒーの味を思い出させるような、少しだけほろ苦い香り。
シンクには使い終わったフィルターが伏せてあって、食器棚の扉が少しだけ開いている。


「来週の旅行、天気もちそうだよ」

差し出されたタブレットには軽井沢の天気予報が表示されている。色々調べてくれているらしい。
聡くんとは社内恋愛で、交際期間は半年ほどだったけれど、知り合ってからは長く、仕事を通じて彼の人となりは充分に知っていたので不安はなかった。大輔と別れて恋愛に臆病になっていた私に、根気強く付き合ってくれた。彼に対して交際中も、もちろん結婚してからも不安を感じたことは一度もない。

「今夜のレストラン、ちなみと初めて行ったビストロだよ。神泉の、ワインと青唐辛子としらすのフリッタータが美味しかったお店。覚えてる?」

「覚えてるよ。美味しかったよね。」

仕事帰り、エレベーターで偶然一緒になり食事にいくことになった。渋谷から少し歩いてところにあるお店でワインを飲み、趣味や子どもの頃の話をして、時間があっという間に過ぎた日のこと。

夫は、私が別れたと知って、そっと気づかれないように話しかけてくれたらしい。
焦らず、距離を詰めすぎず、でも誠実に。
そのスピードがとても有り難かった。

聡くんはTシャツが好きでたまにへんてこなTシャツを披露してくる。今日は「SEA」と書かれたTシャツを着ている。海なんて行ったことないのに──お気に入りのブランドらしい。

私はソファの隣に腰掛けて、そんな彼を少しだけからかう。カーテンが揺れて、テーブルに置かれたマグカップに日差しが当たる。


新婚旅行で訪れた、ハワイのハレクラニで購入した、ハイビスカスのあしらわれたペアのブルーのマグカップ。コーヒーの濃い茶色がきらりと光っている。
購入するときに、そんなベタなものを買うの?と私のことを止めたくせに、彼の方がよく使っている。

「ねえ、聡くん、そのTシャツ……まさか着ていかないよね?」

そして思う。
ドキドキする恋ではなかったかもしれない。
でも、穏やかで、あたたかくて、望んだ未来をくれた人がそばにいる。


聡くんにもたれると、柔軟剤の匂いと、お日様の香りが鼻先をふんわりとくすぐる。ここで、彼の隣りすわって洋服に顔を埋めるまでがセット。首元から寝癖がまだ残る髪の毛を見上げるのが、世界で1番落ち着く角度だ。

元カレのことは本当に好きだった。傷ついて、振り回されても一緒にいたかった。それは叶わなかった。傷ついた時にそばにいたのが、たまたまこの人だった。でも――この人でよかった。今は、心からそう思っている。

液晶画面の大輔には、もう届ける言葉はない。スマホをクッションの下に滑り込ませる。そっと眠りこませるように。

「ーちなみ、眠ってるの?」

大輔からのLINEが届いたことと、少しだけ心が騒いだことは聡くんには秘密にしておこう。私はそのまま目を閉じる。
今、私が話したい人は体温を伴って、すぐ隣にいる。


side B

僕の実家では、長年猫を飼っていた。
名前は「きなこ」という。命名したのは和菓子が好きな母で、きなこは雑種で茶色の毛並みをしていた。気まぐれで、警戒心が強くて、でもふいに心を許してくる──そんなきなこのことを、僕はずっと好きだった。きなこは、ある日学校から帰宅してドアを開けたら僕の足元をするりと通り抜けて、そのまま戻らなかった。


社会人になってから出会った彼女、「長崎ちなみ」さんも、きなこにどこか似ていた。
同じ会社の違う部署、部署をまたぐ会議や廊下ですれ違う程度の関係だったけれど、いつしか目で追っている自分に気づいた。
お弁当のスープジャーが毎日違う色だったり、静かな人だと思っていたのに、ふとした場面で楽しげに笑っていたり──。思えば長いこと彼女のことを目で追っていた。

ある夜、残業していた時、ふと彼女の目が赤いのに気がついた。泣いたあとのようだった。
それ以上のことは聞かなかったし、聞けなかったけれど、それ以来はさらに、これまでのぼんやりとした好意よりとはっきりと、彼女のことが気になっていた。

しばらくして、同じ部署の後輩がぽつりと「長崎さん、別れたらしいです」と話していた。
瞬間、心臓がひときわ強く打ったのを覚えている。

それからは、周囲に気づかれないように、さりげなく話しかけるようにした。
そしてある日、残業帰りに偶然、彼女とエレベーターで一緒になった。
勇気を出して「ご飯でもどうですか」と声をかけた。──あの瞬間のことは今でも覚えている。

最初は断られた。でも、諦められなかった。
僕のことを良く知る同僚には「粘りがちタイプ」と言われるけれど、本当にそうかもしれない。

やがて、恵比寿のイタリアンで初めて食事をした。
趣味の映画、子どもの頃の話、仕事の失敗談──ふたりで過ごす時間はあっという間だった。
彼女が少しずつ心をひらいてくれるたび、僕のなかに安心が広がった。──そして、交際が始まって一年が半分過ぎる頃に僕たちは結婚した。

僕は今でも、あの日彼女が泣いていた理由は知らない。けれど、見かけたのが、そばにいるのが僕でよかったと思っている。

「ちなみーー!」

キッチンから彼女を呼ぶ。
タブレットには、来週の軽井沢旅行の天気予報。

「来週の旅行、天気もちそうだよ」

彼女がリビングにやってきた。
そして、今夜のレストランのことを伝える。

「今夜のレストラン、ちなみと初めて行ったビストロだよ。神泉の、ワインと青唐辛子としらすのフリッタータが美味しかったお店。覚えてる?」

「覚えてるよ。美味しかったよね。」

彼女がふっと笑って、うれしそうに頷いた。

僕は、いつものTシャツを着ている。
「SEA」とプリントされた、お気に入りのブランドのものだ。海なんて、彼女とまだ一度も行ってないのに。

彼女がからかうように言う。

「ねえ、聡くん、そのTシャツ……まさか着ていかないよね?」

ああ、やっぱりそう言った。結構有名なお店のものなのだけれど、どうもちなみのツボにはまったらしい。

「これ、気に入ってるんだけど、ダメかな?」

そう返して、僕は小さく笑う。
彼女がソファに腰掛けて、僕にもたれてくる。

僕には彼女に話していないことがある。エレベーターでは一緒になるよう、タイミングを図っていた。
「偶然ですね」と話しかけたけれど、全部僕が作り出したものだと言ったら、きみは驚くだろうか。
まだしばらくは内緒にしておこう。

そのまま、彼女の髪が肩に触れる。
茶色の毛並みがふいに揺れて、僕はまた、きなこを思い出す。ちなみは目を閉じている。

「ーちなみ、眠ってるの?」

眠ったふりなのか、本当に眠っているのかわからないけれど、それはどうでもいい。彼女がまだそこまで自分のことを想ってないのも知っている。それも今はたいしたことではない。長い時間をかけて、好きになってもらえたらそれでいい。行方不明のきなこを何年も待ち続けていたくらい、僕は気が長い方だ。


クッションの下で彼女のスマホが震えていて、その振動が伝わってきた。反射的に手を伸ばして、少し考えたあと、宙に浮いた指を戻して彼女の髪を耳にかける。やめておこう、今はまだ。


秘密は、ソファの右側で、静かに呼吸をしている。僕に体重を預けて、無防備に振る舞う彼女の体温を体の半分に感じている。今日も柔らかに。



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