【第三惑星で恋をする】センチメンタ・ループの木曜日8
CASE 05-1 ひとひらの木曜日
「また、だ」
息を切らして、ようやく言葉が出た。冷や汗が流れている。
クリーム色の、ところどころ薄汚れた天井。上体を起こし、腕を動かしてみる。着ていたのは、いつもの「ALOHA」Tシャツ。そう、同じ流れ。……無傷だった。
今度は停電がトリガーとなったのだろうか。転倒でもなく、事故でもない。
「なんなんだよ、どうしろっていうんだよ」
つい声が漏れ、頭を掻きむしった。ベッド脇に置いていたスマホを手に取る。画面には、日付がはっきりと表示されていた。
8月21日(木)5時25分。
「……また、か」
もう驚きはなかった。ただ呪いのような時刻に、妙な諦めと一抹の静けさが入り混じっていた。のろのろと立ち上がり、キッチンへ向かった。
冷凍庫を開け、氷を数個、いつものグラスに落とす。ガラン、と氷が鳴る音がやけに耳に残る。
蛇口をひねり、水を注いだ。ごく、ごく、ごく──冷たい水が喉を通る。身体は確かに目覚めているのに、現実だけが遠く感じた。
何故だ。何度木曜日を繰り返せばいい? ずっとこれからも続けるのか?
ふと、スマホに視線を戻す。
そうだ、あのLINE──美里からの通知はどうなっている?
祈るように確かめたものの、やはり何も残っていなかった。
俺は大きくため息をつく。そして“最初の木曜日”と、事故に遭った日を思い返す。
美里のLINEはいずれも、開けないままだった。まだ片づいていない答えがあるとすれば、美里からのLINEだ。待っていても状況は変わらない。
とはいっても、連絡をするにはさすがにまだ早過ぎる。ヤマナカさんの「猛暑日連続18日目」を確認しながら身支度を整えた。
少し時間が経ってから連絡先を開き、「美里」の名前をタップした。
犬のアイコンをしばらく眺めたあと、メッセージではなく電話に切り替えた。
ごめん、朝早くに。でも、もう間違えたくはない。コール音から留守番電話に切り替わるまでが、異様に長く感じた。
「……美里。俺、亮介です。朝早くにごめん。今さらって思われても仕方ないけど、ちゃんと話したい。時間をもらえないかな。連絡、待ってます」
送信ボタンを押したあとの沈黙が、やけに長く感じた。
もう急かすことはしない。取り繕う言葉を探すのはやめた。今度は、ただまっすぐに話したい。
ただ、待つ。彼女の返事を。
通話を終えたあと、スマホの画面はいつもの待ち受けに変わる。まだ時間は少しある。
靴箱の奥から、気になっていた革靴を取り出す。つま先には細かな傷が浮き、かすかに白く曇っていた。
布にワックスをとり、円を描くように丁寧に磨き込む。磨くたび、くすんでいた革がゆっくりと深い黒に戻り、光を帯びていく。
その変化を確かめながら、胸の奥に張りついていた重さも少しずつほどけていく気がした。
最後に靴紐を強く結び直す。ほどけることのないように。玄関のドアを開けると、朝の光が差し込んできた。
◼️
何時の電車に乗るか少し悩んだけれど、8月21日(木)7時21分発、いつもの電車に乗り込んだ。
もしかしたら今回も美里に会うのかもしれない。でも、それならそれでいい。
ちゃんと話をしよう。そして彼女の言葉もきちんと受け止めよう。
電車の中はいつも通りだった。
スマホを触る人、寝落ち寸前のサラリーマン。少し肌寒そうにカーディガンを羽織り直した女性。
ドア横のポールに寄りかかり、会社用のスマホを取り出す。忘れてはいけない。
出社前に用意しておいた修正済みの見積書をメールで送る。これで大丈夫なはず。
信号機の故障が起こるのはそろそろだろうか?
最初の木曜日で故障が起きた駅を過ぎたあと、今か今かと身構える。
しかし、次の駅に着いても今回は何もアナウンスされなかった。
座席に座っていたサラリーマンは、今日は新聞ではなく文庫本を手にしている。
やがて電車が停まり、ドアが開くとホームから人の波が押し寄せた。
少し体を横にずらし立っていた場所を空ける。
「どうぞ」と言ったつもりだったがあまりの人の多さに声にはならなかったかもしれない。
スーツを着た女性が軽く会釈をして前に立った。大きなカバンを抱えるようにして狭いスペースにおさまる。
美里には、このあと会えるだろうか。窓の外を眺めながら逸る心を抑えて駅に着くのを待った。
「次は、大手町、大手町──」
改札を抜け、会社のビルへと続く長い長い迷路のような階段を、待ちきれずに一気に駆け上がって通路に出る。
出口を出る頃には息が切れ、額には汗が滲んでいた。
この時間、あの柱の向こう側──そう、美里と会った日と同じ条件だ。
角を曲がれば、柱の影が見える。自然と足が速くなるのを息を整えながら無理に抑えた。
もしも、今日もそこに美里がいたら。
声をかけてくれるなら。あのとき話しそびれたことを、少しでも伝えられるなら──
最初のループの日の光景を思い返す。
訪ねてきた美里に、ちゃんと向き合わなかったこと。
いや違う、もっと前だ。付き合っているときから、面倒なことから逃げてきた。
それをちゃんと謝って、もし許してもらえるのなら。
柱の角を曲がる。そこには、誰もいなかった。
白い柱と、朝の光に照らされた歩道があるだけだった。少しだけ肩の力が抜けた。靴紐を結び直し、鞄を持ち直す。そのまま会社へと歩き出した。
▶︎九話
