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名馬紹介 マルゼンスキー

【2025年12月7日改訂】
TTG世代の一年後輩、「怪物」とか「スーパーカー」と呼ばれたマルゼンスキー(1974年生 牡馬)を紹介します。
なお馬齢は当時の数え方で記載しますので、いまより1歳ずつ多いこと、ご留意下さい。(記載3歳→いまの2歳)

1.母親が来日
彼の母シルは米国馬です。英国の三冠馬で歴史的名馬のニジンスキーの仔を宿った状態で日本に輸入されました。

シルを購入し、日本に輸入した橋本善吉氏の牧場は、その時点では主に牛の育成をしており、サラブレッドの育成にも乗り出そうと考えていた時期でした。
買い付けが行われたのは、欠員が出たことで急遽参加した農協青年部の米国研修中の出来事であり、運命的なものを感じます。
価格は当時では破格の9000万円。しかし、ニジンスキーの仔が日本で走ることなど、当時の日本競馬では想像できない超特別な出来事でした。

余談ですが、橋本善吉氏は当時「牛の橋本」と呼ばれるほどの牛の牧場の世界では超有名な方でした。また、スピードスケートのオリンピアン、橋本聖子氏の父親としても有名です。

2.出生
無事に生まれてきたマルゼンスキーは、前脚の下肢部が外側に向いていました。しかも、その外向きは成長するにつれて、度を増していきました。
そのために、激しい調教に耐えられないという問題がありました。

3.持ち込み馬
マルゼンスキーは北海道生まれですが、当時の区分では「持込馬」とされました。
1970年代、JRAは国内畜産業保護の観点から、外国産馬と持込馬が出走できるレースを厳しく制限しており、当時のビッグレースでは有馬記念と宝塚記念くらいにしか参戦できませんでした。

4.3歳時(現在では2歳時)
デビュー戦、2戦目と2着にそれぞれ10馬身、9馬身と大きな差を付けて勝ちました。
3戦目の府中3歳ステークスでは、中野渡騎手が楽に勝たせようとし過ぎてスピードが上がらず、2着のヒシスピードにハナ差に迫られる辛勝になりました。

続く朝日杯3歳ステークスは、彼が生涯で唯一真面目に走ったと言われるレースです。結果は前回追い詰められたヒシスピードに2秒以上の大差を付けて、彼我の実力差を見せ付けました。
この勝利によって、1976年の最優秀3歳牡馬に選出されています。

いずれの勝利も他の馬とスピード能力が違いすぎるため、スタートから一人旅をして、差を広げてゴールするという逃げ切り勝ちでした。
その様相は「市販の自動車のレースに、一台だけF1車が参加しているようなもの」と言われたほどです。それほど圧倒的でした。

5.4歳時(現在では3歳時)
軽度の骨折をはさむも、上半期も3戦3勝。しかし前述の通り、持込馬の彼はダービーに出走できません。ダービーの前に中野渡騎手が「ダービーに出して下さい。一番大外の枠で結構です。他の馬の邪魔もしません。賞金もいりません。ただ、この馬の能力を確かめるだけでいいのです」と訴えましたが、当然ながら願いは叶いませんでした。

この談話を当時リアルタイムで、新聞で読みました。大外枠からスタートし、そのまま大外の進路を逃げたまま、後続に大差をつけて先頭でゴールするマルゼンスキーの姿が、容易に想像できました。

日本ダービーへの出走が叶わなかった彼は、当時残念ダービーと呼ばれた日本短波賞に出走します。
向う正面でゴールしたと間違えたマルゼンスキーが、速度を緩めてしまうというアクシデントがありました。
しかし、周りの馬が真剣に走っているのを見て彼も再加速し、その年の秋に菊花賞馬となるプレストウコウに7馬身の差を付けて勝利しました。

夏は北海道のダート競走から再始動しました。ここでもレコードタイムで圧勝しており、馬場の種類も関係ない強さを見せつけました。

レース後には2戦走ってから、有馬記念に参戦すると発表されました。ところが調教中に怪我をして、有馬記念への直行が決まりました。
一度狂った歯車は戻らず、有馬記念前の調教中に屈腱炎を発症します。

症状は軽度でしたが、外向きの脚のために今後の再発の可能性があることや、持ち込み馬が出走できるレースが極めて限定的であったことから、電撃引退が決まりました。生涯成績は8戦8勝です。

6.彼の実力
彼が出走を断念した1977年の有馬記念は、テンポイントトウショウボーイが他馬を無視するようなマッチレースをした伝説のレースです。
マルゼンスキーが出走していたら、彼らを置いてきぼりにして、悠々と逃げ切り勝ちしていたのかもしれません。

そうなれば、伝説の有馬記念はおろか、美しくも激しかったTTGの競い合いの歴史を、木っ端微塵に壊していたかもしれません。

あれから50年近く経った今でも、TTGとマルゼンスキーの闘いを見たかった気持ちと、この終わり方が良かったと思う気持ちが混在しています。

7.種牡馬として
彼は種牡馬としても大成功を収め、ダービー馬のサクラチヨノオーなど4頭のG1馬を輩出していま。
また、未だ外国馬が圧倒的に優勢だった1988年に、種牡馬ランキングの2位に輝いています。

母の父としても優秀で、ライスシャワーウイニングチケットスペシャルウィークをはじめ数多くの活躍馬を輩出しました。いまでも血統表に、彼の名前が数多く見られます。

8.最後に
彼の走りっぷりは世界と日本馬の実力の違いを見せつけました。まさに江戸時代の黒船来航のような衝撃です。その後の開放政策への流れの発端になった馬であり、TTGと共にいまに繋がる近代競馬の幕開けを演出しました。

なお、外国馬にダービー出走が開放されたのは2001年、怪物の出現から四半世紀の時が必要でした。

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