ヒトは、なぜ「なぜ?」という問いを続けるのか?
人間は、「なぜ?」という問いをやめることができない。
それは、なぜか?
「なぜ」とは、原因を知りたいという欲求だろう。
しかし、ある事象に対する原因とは、ぎりぎり言い出せば、宇宙の始まり時点における物質とエネルギーの配列にまでさかのぼることになる。
だから、「なぜ」という問いは、この遡りに対して、どこかで適当に折り合いをつけてしまうということを意味する。例えば、刑法総論における「相当」因果関係説のように。
ヒュームは、因果関係とは人が勝手に事物を結び付けているだけだと言った。カントも、因果関係は、人間の理性が持ってしまっているア・プリオリなスキームだとしている。
要すれば、「なぜ」という問いを発する人間の習性に、それほど合理的な根拠はないということなのだろう。
脳が生み出す副産物でしかなく、生物としてのホモ・サピエンスの特徴の一つでしかないということなのだろう。
さて、アメリカの哲学者ダニエル・デネットは、生物の進化の過程を、ダーウィン型、スキナー型、ポパー型、グレゴリー型という4段階で整理できるとしている。
ポパー型生物とは
ポパー型生物は、様々な行動の選択肢を事前に検討する内部的選択環境を持っている。つまり、行動を実行する前に、生体内部で思考実験もしくはシミュレーションをするのである。そのようなプロセスにおいて、愚かな行動は選択肢から消去され、安全だと思われる行動のみを実行する。よって、ポパー型生物は、スキナー型生物のように、愚かな行動を実行して死んでしまう危険が少ないのだとデネットは説明する。体内に知恵が蓄積されており、頭の中でその知恵を使って行動を事前にテストすることができるというわけである。
また、グレゴリー型生物とは、
先祖や自分たちによって先に構築された外部環境の一部から情報を取得して用いるので、より高度な事前選択やテストができる。つまり、生存のために道具を使うようになったわけである。そのような道具の中で最も優れたものの1つが、こころの道具すなわち「言語」であるとデネットは指摘する。グレゴリー生物の段階になって、文化的環境の中から心的道具(言葉)を持ち込み、外部の情報を利用できるようになったことによって知性は飛躍的に高まったとされる。他者が考案し、改良し、変形させた心の道具を使って、知恵を具体化し、次に考えるべきことについてより良い考え方を学び、より深く限界のない内省力を生み出したのだとデネットはいう。
ポパー型生物は、内部環境にIF~THEN文のようなシミュレーション環境を内部に持っていることになる。よって、前提条件を認識しているとことであり、この前提条件を原因とする結果を持っているので、萌芽的「なぜ?」という問いを発する機能を持っていることになろう。
また、グレゴリー型生物は、当然、外部環境に働きかけるときに、「なぜそうなるか」ということ考え、他者にもそれを伝える機能を持っていることになるので、「なぜ?」という問いを自分自身にだけでなく、他者にも発することができるようになっているということになる。
ただ、このような見方からすると、「なぜ?」を問うという機能は、進化的適応度を高める「機能」でしかないということになる。
逆に言えば、適応度を高めることに寄与する範囲での因果関係が把握できれば良いということになる。その範囲が、生物としての人間にって「必要な」相当範囲の因果関係ということなる。神のごとき究極の原因にまで遡れるような因果把握の能力はオーバースペックということになる。
とはいえ、カントが言うように、知る事のできない因果関係を知ろうと「暴走」するのも、人の理性なのではあるが。
