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生成AIと「人格なき正しさ」の限界


 生成AIの登場によって、情報を作出するコストが劇的に低下している。同時に、その浸透は、デジタル情報の価値を、「内容」から、それを発信する「主体の人格」へと力ずくで引き戻している。

専門職化社会と「正しさ」の変遷

 近代以降、社会的な「正しさ」の基盤は変遷してきた。最大多数の最大幸福を優先する「帰結主義」や、普遍的な規範を重んじる「義務論」が長らく支配的であったが、現代の哲学や科学哲学の潮流は、徳倫理学的な「人格の在り方」や、文脈に応じた「手続き主義的な正しさ」へと重心を移している。
 専門職化社会において、情報の正しさは、その発信者が持つ資格や地位、つまり「社会的身体」と、その社会的身体が身に着け実践している(はず)の手続きによって保証されてきた。
 生成AIは専門家特有の文体や論理構成という「形式」を完璧にシミュレーションしてしまうので、その情報自体だけを見れば、有用で論理的に正しく見えてしまうし、手続き履践の状況を知る事のできない素人には、その虚実を判断することができない。
 その情報を作出した人格が分からない状況における、リスク回避的なミニマックス原理に従う「合理的な」行動とは、情報をまずは疑ってみるという姿勢になるはずだ。というのも、生成AIが陸続と、匿名的に大量に生み出すコンテンツには、自らの言葉に責任を負い、その正しさを自らの生き方(徳)によって基礎づける「人格」が欠落しているからだ。

「デッド・ウェブ」とメタバースの空虚

 ネット掲示板がボットに占拠され、対話が空洞化している現状は、この人格不在が招いた「信頼の真空地帯」である。そこにある言葉は、誰の身体からも発せられておらず、誰の人生も背負っていない。情報の真実性は、それを整形する道具(AI)の性能にかかわらず、発信者の人格という「物理的裏打ち」なしには成立し得ないことが露呈したのである。
 このように考えると、メタバースのようなネット完結的な存在は、極めて危うい存在ということになるだろう。メタバースは本来、物理的制約から逃れ、身体性を希薄化させる装置だ。しかし、社会が今切実に求めているのはその逆、すなわち「この情報を発信しているのは、嘘をつけば社会的・身体的な痛みを伴う実在の人間か」という人格の証明である。匿名のアバターがAIを介して語る高度な知識は、徳倫理学的な意味での「正しさ」を担保できず、ただの空虚な記号として霧散する。

結論:物理的検問が守る「真実」

 企業が採用活動において、エントリーシートを使わなくなる例が出てきているという。生成AIで作成された大量のエントリーシートは、新しく採用すべき人財のスクリーニングに何の意味も持たなくなっているからだ。
 このような動きは、デジタル化への逆行ではない。むしろデジタル化が進んだ結果として、情報の正しさを死守するための「物理的な検問」への回帰が必要になったということである。
 AIがどれほど優れたコンテンツを整形しようとも、その根底にある事実の有無を証明するためには、最終的に「人格」を持つ生身の人間へとアクセスせざるを得ない。
 私たちがメタバースのようなサービスに対して抱く違和感の正体は、そこが「正しさ」の責任を負わない記号たちの遊戯場に過ぎないという予感にある。そこでなされるアバター同士のやり取りには、「情報の真実性」を保証するものがなにもない。
 生成AIを筆記用具として使うのであれば、構わない。その言葉を吐いた者の顔、声、そして裏切りが許されない物理的な実在――すなわち「徳」を宿した人格そのものへと回帰していけるから。

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