進化とブリコラージュとは、相性が良いのだろうか?
進化をブリコラージュでアナロジカルに理解することは、目的論的自然観から脱却できているようで、脱却できていないような気がする。
というのも、ブリコラージュは、「あり合わせ」ではあるが、やはり手持ちのリソースを用いてセカンドベストを意図している主体を想定しているから。
実際の進化には、進化を推し進める主体は存在しない。老子が言うように自ずと生じる。途方もない長時間にわたる、途方もない繰り返しがあっただけだ。
我々は、造山活動に、主体性を持ち出したりはしないだろう。また、造山活動を状況依存的とは理解しても、ブリコラージュとは表現しないだろう。
生物進化も同じで、ブリコラージュという「隠れた主体性」を保持しているアナロジーを持ち出すべきでないのだろう。
膨大な数の相互作用、個々の人間では実感できないような長時間性というものがもたらす複雑さということに向き合う.
単純化の誘惑にあらがう思考メカニズムが必要なのだろう。
全てのことを「オッカムの剃刀」で判断しようとしてはいけない。
