見出し画像

全ての人から「愛される」というアルゴリズムの寓話


ヘルマン・ヘッセの短編「アウグスツス」(大人の寓話)

 先日の読書会で触れた数々の物語のうち、帰り道の静寂の中でふと思い返し、どうしても頭から離れなくなった作品が二つある。そのうちの一つが、ヘルマン・ヘッセの短編『アウグスツス』だ。
 物語は、ある貧しい未亡人のもとに、隣人の老人が「赤ん坊への贈り物」として一つの魔法を授けるところから始まる。その魔法とは、「この子が誰からも愛されるように」というものだった。成長したアウグスツスは、その超自然的な魅力によってあらゆる人々の寵愛を一身に集める。しかし、努力せずとも全肯定される世界は彼を傲慢な放蕩者へと変え、ついには生きる意味を見失うほどの深い虚無へと突き落とす。絶望した彼の前に再びあの老人が現れたとき、アウグスツスは「魔法を解き、自分が他者を愛せるようにしてほしい」と願う。その後、アウグスツスの人生は転落していくが、他者を愛することを実感し、最後にかの老人の元に戻って安寧の終わりを得るという結末。
 この作品について考えていた際、不意に、「現代に舞台を移したとしたら、ヘッセは、どのような舞台を設けるだろうか」と思いついてしまった。現代にアウグスツスが現れるなら、間違いなく、彼は「時代の寵児」たるトップ・インフルエンサーだろう。そして、彼に魔法をかけた謎の老人は、SNSの背後で蠢く「推薦アルゴリズム」の擬人化あるいはAIとして登場させることになるのではなかろうか。

魔法というアルゴリズムによる賛美

 老人が施す魔法は、現代においては「全肯定的なアルゴリズム」へと置換することができよう。アウグスツスが何かを呟けば、瞬時に数百万の「いいね」がつき、彼にとって不都合な批判や罵倒は、そのアルゴリズムによって徹底的に排除される。
 しかし、ここにもヘッセが指摘した罠がある。原作におけるアウグスツスの絶望は、「誰からも愛されるが、自分は誰も愛していない」という非対称性から生じた。現代版においても、画面越しの数百万の賞賛は、彼にとって「顔のない数字」に過ぎない。どれほど通知が鳴り止まず、画面がハートマークで埋め尽くされても、彼の内面にはしんしんとした孤独が積もっていく。他者からの愛が「自動化」されたとき、それはもはや魂を震わせる対話ではなく、ただのノイズへと変質するのだ。

慢心と空虚のデッドエンド

 アルゴリズムに選ばれし者となったアウグスツスは、次第に「愛されること」を当然の権利と思い込み、他者を自分の承認欲求を満たすための「資源」としてしか見られなくなる。これは原作で彼が享楽に耽り、人々を弄んだ姿と重なる。SNS上のアウグスツスにとって、フォロワーは血の通った人間ではなく、自身の価値を証明するスコアへと記号化される。
 やがて訪れるのは、完全な虚無である。何もせずとも愛されるという状況は、自ら主体的に動く動機を奪う。彼は自分が何をしたいのか、何を美しいと思うのかさえ分からなくなる。その眼に映るのは、虚飾に彩られた自分自身のアイコンだけであり、その背後にあるはずの「生の実感」は枯れ果てている。ヘッセが描いたアウグスツスの自殺衝動は、現代においては、あまりの承認の重圧と自己の不在に耐えかねた「デジタル・デスの願望」=アカウント削除の衝動として現れるだろう。

アルゴリズム変更の生み出す悲劇

 この推薦アルゴリズムが、突然変更されたらどうなるか。
 魔法が解けた瞬間、彼のSNSは炎上し、あるいは急速に忘れ去られ、フォロワーは一斉に去っていく。しかし、そのどん底のなかで、彼は初めて「自分以外の誰か」を真に見つめることになる。
 ヘッセが導き出した結末は、「愛されること(受動)」から「愛すること(能動)」への転換だった。これを現代版のプロットに落とし込むなら、かつてのインフルエンサーが、誰も見ていない匿名のアカウントで、苦しんでいる見知らぬ誰かに、見返りを求めない一言を投げかけるようなシーンになるかもしれない。あるいは、デバイスを置き、目の前にいる一人の人間のために、自分の時間と心を使うというささやかな、しかし困難な一歩であるのかも知れない。
 ただ、このヘッセの作品で私がひっかかりを感じたのは、主人公よりも、魔法をかける老人の存在の方だった。作品の中で、語られることのない老人の事情、そして内面はどのようなものなのかということだ。

疑似恋愛を疑似的に描く「一撃のお姫さま」

 ここで登場させたいのは、読書会で気になったもう一つの作品、島本理生の短編作品「一撃のお姫さま」だ。主人公の睡は、ある仕事上の事情から、ホストの世界を知るために「1カ月100万円」とリミットを設けてホスト店に通うことになる。疑似的に疑似恋愛を体験するという二重にメタな設定で、ホスト店に通う姿が描かれていくというストーリーだ。
 本作における主人公・睡は、ホストという虚飾の世界に身を置きながら、一歩引いた場所から自らの立ち居振る舞いを制御している。常に予算の消化状況をトレースすることが、その象徴的表現となっている。この「溺れない強さ」は、アウグスツスの人生を魔法一つで決定づける老人の超越性と重なる。
 アウグスツス自身は、与えられた「愛される魔法」というアルゴリズムの中で溺れ、虚無へと沈んでいく「被写体」に過ぎない。「一撃のお姫さま」の中のホストも、毎月のランキングを左右するお姫さまの金使いというアルゴリズムに一喜一憂する存在だ。
 対して老人は、そのゲームのルールを掌握し、彼が絶望の極致に至るタイミングさえも見計らっている。「一撃のお姫さま」において、睡がリミットに達した時に見せる引き際の鮮やかさは、ヘッセの老人がアウグスツスの前に再来し、魔法を解く場面の唐突さと共鳴する。睡が自らの消費行動を客観視することでホストとの関係を完結させるように、老人もまた、アウグスツスが「受動的な愛」の限界を悟った瞬間、魔法の終わりを告げる。
 この両方の場面では、「アルゴリズム(金や魔法)に対して、人がどのよう反応を見せるか」を把握しようとする側の視線が優位に立っている。そして、この2作品における老人と睡は、決して、全能の神ではなく、アルゴリズムの対象に対し「面倒を見切っての救済」を施すという感じではないところにも共通性がある。

「承認の牢獄」からの離脱というカタルシス

 私たちはアウグスツスのように、アルゴリズムの寵愛や他者の承認という魔法を享受し、その中で迷走する。しかし、物語の真の主役は、その狂騒の外側に立ち、すべてを構造として把握している「老人」である。また、島本理生が描く睡の冷静な金使いは、私たちが現代社会という巨大なアルゴリズムの中で、いかに「観測者」としての自己を保てるかを問いかける。そのような視点は、推し活や課金ゲームというシチュエーションへと広く展開できるものではなかろうか。
 ヘッセの老人は、単なる魔法使いではない。彼は、自分自身の人生を一歩引いた場所から見つめさせるメタ認知の具現化であったと言えよう。アウグスツスが最後に得た平和とは、彼自身が「愛される対象」という被写体であることをやめ、老人や睡と同じように、世界を観察する「能動的な観測者」へと進化したことによる、「承認の牢獄」からの脱獄だったということかもしれない。
 島本の作品では、睡が「観察」したホストは、そのホストの世界から離脱しないで、承認欲求競争のただ中に沈み続けるという結末となっており、ヘッセの作品のようなカタルシスは描かれていないように見えるかもしれない。

 しかし、本作の終わり方には要注意だ。
 本作の本当の結末は、睡がホスト店通いをやめたということで終わる訳ではない。元々、睡は、ホストとお姫さまを題材としたアニメの主題歌の作詞作曲のために、ホストについて知るべく店に通っていた。制限付きのホスト店通いの中で、ホストとお姫さまの共依存構造を、実感をもって見出すに至った。その実感を反映させた曲作りを原作者に感謝されるという結末が出てくる。つまり、このお姫さまとホストの関係が、実は作中の隠れたストーリーの中では「承認の牢獄」から解き放たれているというカタルシスを感じさせるラストとなっている。
 その意味で、「アウグスツス」と「一撃のお姫さま」の間には、ある種の同期を見ることができるのではなかろうか。

いいなと思ったら応援しよう!