彷徨える「保守」のパラドックス:王莽の「新」にみる回帰と破壊
保守主義とは?
「保守主義」という言葉の輪郭が判然としないのは、保守を自認する側において「何を保守すべきか」という具体的対象が一貫していないからである。本来、保守主義とは、一種の「反動」現象であり、急進的な「進歩」や「啓蒙」に対するリアクション、すなわち「反変化」という消極的な形式でしか自己を規定できない宿命を背負っている。異端が現れて初めて正統が定義されるように、それは具体的な目標を持つ進歩主義に対する「反異端」という器に過ぎない。
この思想の不安定さを助長しているのが、保守の拠り所となる「伝統」の不確かさだ。人々が「昔」と認識するために要する時間は存外に短く、我々が守るべき秩序と信じるものの多くは、実は戦後や明治期といったごく近い過去の産物であることが珍しくない。保守すべき伝統秩序とは、詰まるところ「今」の延長線上にある現状維持思考の言い換えであることが多いのだ。
保守回帰の過激性:王莽
しかし、真に警戒すべきは、この現状維持が「保守回帰」の名の下に、都合の良い過去を「つまみ食い」する独善的な改革へと変質する瞬間である。その最たる歴史的教訓が、前漢と後漢の間に介在した王莽による「新」という国家である。王莽は、乱れた現状を正すために周代の古制へ回帰するという「托古改制」を掲げた。彼は儒教的理想という「過去」を徹底的に信奉する保守主義者の顔をしながら、実際には現実を無視した極端な革命的政策を強行し、社会を未曾有の混乱に陥れた。保守への執着が、現実を破壊する「とんでもない改革」へと反転したのである。
さらに重大なのは、王莽が自らの権力掌握を正当化するために「禅譲」という革命形式を「発明」したことだ。徳のある者に帝位を譲るという聖王の伝説を、簒奪の道具として再解釈したこの形式は、その後の中国史における正統性の流動化を招いた。この「発明」された伝統は、力ある者が「天命」を自称して帝位を奪う大義名分となり、結果として五胡十六国から南北朝へと続く、数世紀にわたる大分裂と動乱の時代を呼び込む引き金となったのである。
保守の秩序破壊
「今」を守るための現状維持が、ある種の理想化された過去をつまみ食いし、それをルール変更の根拠としたとき、保守は保守であることをやめ、破壊的な過激主義へと変貌する。保守すべき対象を特定できないまま、都合の良い時間軸を彷徨う思想は、王莽が証明したように、しばしば守るべきはずの秩序そのものを根底から崩壊させる「革命」の装置へと成り下がるのである。
