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歴史から学ぶとは、どういうことか

ヘーゲルは、「人が歴史から学べる唯一のことは、人が歴史から学ばないことだ」と言ったとされている。ヘーゲルは、実は軽口をたたく人だったようで、ノリで書いてしまっているケースも多いとのことなので、ヘーゲルの思想として、この一文をあまりに過大視する必要はない。
なお、その「歴史哲学講義」の中の該当部分は正確には、以下のようなものとなっている。

君主や政治家や民衆に向かって、歴史の経験に学ぶべきだ、と説く人はよくいますが、経験と歴史が教えてくれるのは、民衆や政府が歴史からなにかを学ぶということは一度たりともなく、歴史からひきだされた教訓にしたがって行動したことなどまったくない、とうことです。それぞれの時代はそれぞれに固有の条件のもとに独自の状況を形成するのであって、是非善悪の決定も状況のなかからおこなわなければならないし、また、それ以外に決定のしようがない。世界的事件の渦中にあっては、一般原則も、類似のできごとの記憶も、なんの役にもたつはずがなく、というのも、色あせた記憶をもってしては、生気と自由にあふれた現在にとても太刀打ちできないからです。

長谷川訳「ヘーゲル 歴史哲学講義(上)」岩波文庫  p18-19


勿論、「愚者は経験に学び、賢者は歴史から学ぶ」という言葉もあるように、歴史から何らかの法則性、いわば因果関係を見出すということには意義があるというのが、一般的であり、歴史から学べるのであれば、歴史から何らかの知見を得たいし、得るべきだという発想が広く普及していることも否定しない。なんなら私もそう思わないではない。

しかし、現在の「実証的」歴史学と称される研究は、物語を紡いでいるだけのように見える。
昨今の心理学や社会科学では、再現性の危機ということが言われている。現在の歴史学における因果関係の設定は、「再現」による実証ができない。というのも、実験も観察も出来ないのだから。
ということは、歴史学における「因果の語り」は、それを読者が受け入れるかどうかという説得術、レトリックの巧拙の問題でしかないということになる。

勿論、社会科学、特に政治学の分野で、この問題を乗り越えようとして、定量的、定性的な分析手法の彫琢がなされている。また、一部の歴史学研究、特に社会史において、統計的因果推論の手法を応用する等の試みもなされてはいる。
しかながら、こういう手法は(大量)社会現象のような類似、共通の事象がある程度の回数繰り返される(ように見える)事象の歴史的因果性の解明には適用できるかもしれないが、「大きな」政治的意思決定のような1回限りのものについては適用できない。
よって、政治史という文脈では、こういう手法は利活用しづらいとしか言いようがない。

今後、複数の「大きな」歴史的事象間の「共通性」を説得力ある形でくくりだす科学的技法が出てくれば、定性的、定量的な因果推論の方法も確立してくるのだろうと期待はしている。

<参考文献>
「社会科学のパラダイム論争」
「質的研究アプローチの再検討」
「ソフトウェアで学ぶQCA<質的比較分析>入門」


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