「気」とか「道」を現代思想の中で検討する意味
歴史的中国思想における「気」とか「道」という概念を歴史上の事実として「そういう思想があった」という思想史、哲学史的に解明することを超えて、現代(思想)において論じる意味とは何か?
そもそも、そういう意義はあるのだろうか?
現代物理学からして、「気」なるもの、「道」なるものが存在しているか、否かを論じることに意味はない。結局、その概念の外延、定義によるのであり、エネルギーとか法則という概念で代替できてしまう。
しかし、「気」を還元主義的な究極の構成要素と考えると、そのような膨大な数の構成要素の相互作用を生み出す複雑系を解明する複雑系科学の中で、何らかの位置づけを得られるのかも知れない。
あるいは、「気」には、物質性と精神性を併せ持つものと考えられている面があることから、意識と脳の関係を扱うハードプロブレムを再定式化する突破口になるのかも知れない。デカルトの心身二元論に向かって、現在の自然主義的方向からではなく、別の方向からアプローチすることを可能にするのかも知れない。
「道」についても同様で、これを法則性と考えた場合、ヒュームの懐疑主義の洗礼を受けている科学哲学にどのように位置づけられるだろうか。
また、決定論との関係はどうであろうか?
はたまた、政治哲学における正当性概念とも関連付けて考える必要があるし、メタ倫理学におけるリアリズム(倫理実在論)との関係も検討しなければならない。
中国思想の個々の概念を再考し始めると、時間が溶けていく。
