【幸せの茶表紙 第2話】第二頁 アンリエット・モロー
『幸せの茶表紙』を見たことがある人は、意外と多い。 ふと気づけば本棚にあり、見れば道端に落ちていて、振り返れば物置の中にある。
けれども誰が、いつ、どうして手に入れたのか知る者はいない。
持ち主がどうなったのか、語る者もいない。
一つだけ確かなことは、茶表紙を手にした人は幸せになれるということ。
それがどんな形であっても。
アンリエットはとても優しいおばあさんでした。
夫を早くに亡くした彼女は、五人の子供を一人で育て上げ、立派に送り出しました。
一人で暮らすようになっても、朝はお日様とともに起き、窓を大きく開けて掃除をします。
お昼には焼いたパンを食べ、ご近所にもそれを分けることもしょっちゅうでした。
暖かい暖炉の前でイスを揺らしながら編み物をし、温めたミルクを少しずつ飲みます。
暗くなったらろうそくを灯し、シチューとパンをお祈りをして慎ましく食べます。
そして一日を無事に終えられたことを神様に感謝して、眠りにつくのでした。
アンリエットにはたくさんの孫がいました。
彼女は孫たちを本当に可愛がり、いつもその頭を撫でてはお話を聞かせたり、ケーキを焼いたりしていました。
特に一番下の、ジョルジュという名前の男の子は、ことのほか可愛がられていました。
クルクルした赤い髪の彼は、そばかすのあるこれまた赤いほっぺをぷっくりとさせて笑います。
兄弟たちからも、いとこたちからもよく遊んでもらっていたジョルジュ。
もちろんアンリエットのお家に来て、その膝に座ることも大好きでした。
アンリエットはそんな彼の頭を撫でながら、ずっとこの子がみんなに可愛がられれば良いのに、そしてこの子の側にずっといられればいいのにと思うのでした。
ある日曜日のこと。
いつものように教会の帰り道、そこに本が落ちているのをアンリエットは見つけました。
「あらあら、立派な本ねえ」
拾い上げてみると、それはそれはきれいな本で、茶色の革の装丁に上品な金であしらった線が引かれています。
しっとりとした手触りで、そのずっしりとした重さすら心地のよいものでした。
「落とした人は困っているでしょう」
アンリエットは本を持って、とりあえず教会に戻ります。この辺りで本を持つと言えば教会ぐらいだと思ったからでした。
「残念ですが、うちのものではありませんな」
神父様はそう言って首を振りました。
「困ったわねえ。中に落とした人の名前でもないかしら」
神父様の立ち会いのもと中を開くと、そこにはしかし何も書かれていませんでした。
驚きつつもページをめくっていくと、優雅で滑らかな線で書かれたページを見つけました。
そこには、こう書いてありました。
『心に残る人にするために』
その子の頭を撫でながら、慈しみを込めて名前を一息に呼ぶこと。
教会からの帰り道、誰かに親切を行うこと。
日曜日は必ず聖書を読むこと。
少なくともマタイの書を読み終えるまでは続けること。
「なにかしら、これ」
書かれている事が、なんだか本に見透かされているような気がして、アンリエットは少し怖くなりました。
けれども毎週聖書を読みなさいというこの本が、悪魔のものではないはず。
そう考えて、アンリエットはこの言葉を試すことにしたのです。
考えてみれば、時々聖書を読むことを忘れているときがありました。
親切にすることはよいことです。
可愛い孫の名前はいつも呼んでいます。
むしろ良いことしかありません。
アンリエットは神父様にお礼を言って、教会を後にしました。
その帰り道、目の見えないおじいさんに会った彼女は、さっそくその人に手を貸して村まで一緒に戻り、満足して眠るのでした。
翌日から、アンリエットは本の提案を行いました。
名前を呼ぶ時、ジョルジュはいつも嬉しそうにしています。
子供の時のイエス様が難を逃れた場面は、何回読んでもドキドキしてしまいます。
元からアンリエットは親切なおばあさんでしたが、もっと良い人だと思われるようになりました。
けれども違うのです。
自分のことはいい、ジョルジュがみんなの心に残ってくれればそれでいいのだ、と。
孫たちは外に出てたくさん遊び、村の人たちはその様子をニコニコしながら眺めます。
遊び疲れてアンリエットの家でお昼寝をする孫たちの頭を、一人一人慈しみを込めて撫で、アンリエットはとても満たされた気持ちになるのでした。
マタイの書を使徒たちをイエス様がお決めになったところまで読み進めた時、村で風邪が流行りました。
ほとんどの人が風邪を引いて、アンリエットもその一人でした。
孫たちも風邪を引いた彼女を心配していましたが、うつってはいけないので、アンリエットは家で一人で寝ていました。
コンコン。
扉が小さな音を立てます。
「開いていますよ」
咳き込んでから弱々しく返事をすると、なんとジョルジュがそこに立っています。
「ジョルジュ! うつるから来てはいけないよと言ったのに、あなたって子は」
ジョルジュは両手に持っていた小さなお鍋をテーブルに置くと、ベッドのアンリエットに走り寄ってきて、そのまま彼女に抱きつきました。
「だって僕おばあちゃんが心配だったの。お母さんからは行くなって、迷惑だからって言われたけど、おばあちゃんがお腹空いてるかも知れないから、スープを持ってきたんだ」
優しいジョルジュはそう言ってアンリエットの手を握りました。
ああ、なんていい子なんだろう。
アンリエットは心が温まるのを感じながら、ジョルジュの頭を優しく撫で、慈しみを込めて名前を呼びます。
「ありがとう、本当にありがとうジョル――」
ゴホゴホと咳き込み、でもアンリエットは笑顔でした。
「ジョルジュ。おばあちゃんすぐに元気になるから、今日は帰って暖かくしていなさい」
「うん、またお話聞きたい。おばあちゃんはやく元気になってね!」
大きく手を振って、ジョルジュは家を出ていきました。
そしてそのまま、帰らなかったのです。
それは本当に不幸な出来事でした。
ぬかるんだ道で滑ったジョルジュは転んで、ちょうどそこにあった石で頭を打って神様の下へ行ってしまったのです。
村中が泣きました。
アンリエットの孫たちもみんな泣きました。
アンリエットは、泣けませんでした。
あまりにも突然で、あまりにも現実とは思えなかったからです。
小さな棺に納められたジョルジュは、まるで眠っているようでした。
棺に土がかぶせられた時、初めてアンリエットは涙が頬を伝うのを感じました。
村の若い彫刻家が、ジョルジュをモデルにした可愛らしい天使の像を彫り上げたのは、それから二月が経った頃でした。
アンリエットはそれを見てまた泣いて、彫刻家にお礼を言いました。
村の人たちみんなが賛成して、その像は中心の広場に置かれることになりました。
そのうちそこは噴水となり、天使のジョルジュは水の中でニコニコと笑っているのでした。
それから数年後、アンリエットは子供たちと孫たちに囲まれて、その命をまっとうして神様のところに行きました。
若い彫刻家は彼女の死も悲しんで、彼女をモデルにした年老いた聖母の像を、天使のジョルジュの下に置きました。
聖母は慈しみにあふれた目で、天使を嬉しそうに見上げています。
『ジョルジュとアンリエット』
噴水には、そう刻まれています。
それから長い長い時が経ちました。
若い彫刻家は死んでから有名になり、彼が手がけた『ジョルジュとアンリエット』を一目見ようと、国中から人が集まります。
村はそのおかげで発展し、村の人たちはとてもお金持ちになりました。
いつしか町になり、市になり、その中心で天使と聖母は微笑み続けます。
恋人が共に見れば永遠の愛を、親子が共に見れば家族の愛情が強まると伝えられ、多くの人がそのようになって幸せになったのです。
聖母のアンリエット、なぜかその左手は何かを持つように膨らんでいます。
ちょうど本が収まるくらいに。
『幸せの茶表紙』にまた一頁が綴られた。
風が吹き、そのページがめくられていく。
様々な風景、色々な顔。一つとして同じもののない生涯が次々と流れていく。
幸せとは、訪れるもの。
今日もまた、茶表紙はどこかの誰かに出会う。
