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対話する稽古場のために何ができるかーどらま館Laboリサーチ対談

 早稲田小劇場どらま館の企画する「どらま館Labo」
「どらま館Labo」は、早稲田演劇の卒業生と現役生が世代や団体の枠を越えて出会い、広義のつながりを育むことをテーマに創作を行っています。
 本対談連載では、多様性を意識した創作を行ってきたゲストをお招きして、今回の上演をより広がりのあるものにするため、意見を伺い考えを深めていきます。

 今回上演する永遠幼稚園は、幼稚園児の視点から、男の子/女の子という枠組みのなかでの“話せなさ”や言葉にならないモヤつきを描いた作品です。そこには、現在の私たちから見れば、引っかかりを覚えるような感覚も含まれているかもしれません。

 今回の対談では、ゲストに、いいへんじ中島梓織さんをお招きし、脚本・演出の山本健介さんがお話しを伺いました。「どらま館Labo」の創作のあり方や脚本を手がかりに、多様な立場で創作を行うことの難しさや葛藤について、具体的な経験を交えながら語り合いました。


チェックイン

山本:
いいへんじの公開稽古(※​​​​​​20252/15, 2/16【オープンスタジオ・トークイベント】いいえんぎ(いいへんじの演技体)を探る会​​)あったじゃないですか。 あれを見て、やられていた稽古の最初に体調を10段階の数字にして言うっていうのを、うちの稽古場でも始めたんですよ。
わからないなりにやってみたら全員が、体調に加えて「こういうことがあってさ」って話してくれるってことに気づいて。語りを引き出す効果があるんだ! と。あれいつからやられてるんですか?

中島:
知り合いの現場で、やってるっていうのを聞いて、取り入れてみました。
「チェックイン」って呼んでるんですけど、私がチェックインやってていいなって思うのは、
稽古場に来るまでの生活がそれぞれにあって、ただ演出家と俳優ってだけじゃなく、人間としての生活がある前提で話せる。

稽古の佳境に、その話をしてることが大事になってくる気がしてて。 例えば演出家がただ疲れているだけの時に、俳優が「作品の進捗が悪いからイライラしてるんじゃないか」とか、稽古場で変な勘繰りが生まれちゃうみたいなのが一番良くないなと思ってて。それがちょっとなくなるなっていう。
調子悪くなってから言うってハードルが高いので、悪くない時から言っとくみたいな。

学生時代の早稲田演劇

ーーそれぞれのその学生時代、早稲田演劇でガッツリやった時期があると思うんですけど、その頃の雰囲気だったり考えていたこととかを、お聞きしても大丈夫ですか ?

山本:
僕は2002年入学で、まだその頃はどこか緊張感がある雰囲気がまだ早稲田にあった。人の芝居を見たら全部否定しなきゃいけないって思ってたりして。
僕が所属していた演劇のサークル(劇団森)の当時の新人公演の稽古は、基本、新人たちだけでやるんだけど、たまに上の人がやってきて、つまんないね、みたいなプレッシャーかけて帰っていくみたいなのもあって、ファイトを燃やしたり落ち込んだりするみたいな空気だったかなあ。

中島:
私が2016年入学、2020年卒業なんですね。
多分、ギリギリ新人訓練と呼ばれるもの、そう呼ばれてきたようなものの、最後の世代だと思ってて。
私が演劇倶楽部ってサークルの新人だった頃は、エアコンつけない演劇練習室で1時間体を動かしつづけるとか、身体的に過酷な新人訓練は当たり前でした。

その時点で自分は正直「これって意味あるのかな?」と思いつつも、新人訓練を3ヶ月頑張ればこの後好きなことできる、というのをモチベーションに、一生懸命やりました。
で、2年後、2018年に自分が新人担当(その年の新人を指導する側)になる。 その時に、新人訓練のメニューとしてやっていることの、何が俳優に必要なのか、自分たちの中で言語化して。

山本:
すごい偉い!

中島:
なぜやるのかぐらいは説明できないと おかしいなと思ったんです。

山本:
そこに至れるのが一番ですよね。
僕は、当時は威圧とかそういうのは必要なもんなんじゃないかって、わりと受け入れちゃってた。圧を受けながら、あぁ、そうか、この空気の中で威圧の隙間で勝手に面白いこと作んなきゃいかんのかなとか思ってたかもしれない。

新人訓練と、キレる

中島:
私はどっかでこのやり方が絶対ではないなっていうのがあったから、新人訓練の中でも、後輩のいいところは褒めたり、おもしろいときは笑っていたりしていました。でも結局、システムは変わっていなかったから。はっきりとした権力勾配がある状態でやってたのは事実だし、実際、その中で傷ついてた後輩たちもいたと思うから、自分としても反省すべき点がいっぱいあります。

難しいんだけど、新人訓練のやり方に対しては批判的だった一方で、コミュニティとしては演劇倶楽部のことがすごく好きだったんですよね。
自分たちが「エンクラってこうだから」みたいなものを無意識に受け継いでいたのは、今考えると、エンクラの人たちと繋がっていたいから、エンクラというコミュニティを守るためだった。
それを見直す機会が、なかったと思います。すごく閉鎖的になっちゃって、つながりは強固かもしれないけど、同時に搾取もあったりするみたいな。
その葛藤を持ちながら新人担当をやっていました。

山本:
そう考えると本当に割といろいろ真に受けてた感じがする。
旗揚げした時には、とりあえずキレなきゃいかん、キ、キレようと思って。 でも、キレる先やキレ方がわかんなかったらとりあえず不愉快なトーンで床を蹴ってみて。
当時一緒に旗揚げした人たちにはやっぱバレてて、あ、無理してやってるって、後から言われたけど。

でもそういう風に、集団を率いる人間は何か強い言葉を言わなきゃいけないんじゃないかって、当時は思ってたかもしれないですね。
最初の通し稽古が良くないなってときに一度キレたりすると、みんなが集中するなって思ってた時があって。 単純にもうちょっと集中できるような環境になればいいんだけど、一番ガサツで手っ取り早い方法がちょっと不機嫌になってみるってことだったんだろうね。今思うと、もっとやり方が全然あった。

中島:
私が新人担当をやった時は、ある意味舐められてたっていうか 、でも、それでよかった。元々そういう人間じゃないから、怒鳴れって言われても、できないし、バレちゃうから。
変に隠しすぎたり、虚勢を張りすぎたりするよりはよかったかなって。

どう注意するか

山本:
つい最近まで、中島さんは中学生とワークショップ公演(世田谷パブリックシアター 中学生演劇部)をやられてたかと思うんだけど、年下とやる時ってどうしてますか?

中島:
話を聞いてくれなかったり、茶化してきたりしたら、「そういうふうに言われると傷つく」って言うようにしてます。
「みんなに話したいし、あなたにも聞いて欲しいから、聞いてくれる?」みたいな感じで、自分の気持ちを言う。

山本:
僕はそういう時(山本も中高生向けワークショップをやった事がある)に、うまくそこで話せないと思っちゃったな。 先生っぽい権威の振り回し方しちゃったかもしれない、
その時の自分、ちょっと言葉を無くしちゃった。どう声かけていいんだろうかって迷っちゃった。
そうか、今の話聞くとちゃんと、いま、こっちの気持ちはこうなんだよ、と伝えればよかったのか。

怪物か人間か

中島:
うまくいかないときって、冷静になって振り返ると、結局自分のキャパオーバーだったりするんですよ。周りが見えなくなってて、そういう余裕がなくなってて。
私、演劇をずっと続けることを目標だって言ってて。
目標って何ですか? って尋ねられたら、この劇場でやりたいとかを求められると思うんですけど。 本音を言えば、続けていられればいいっていうか、三年後も五年後も続けていられればいい 。
這いつくばってでもやるっていうよりは、 まずは健康で、お互いのことを尊重し合ってる状態で、人として続けたいなって思っています

山本:
「人として」……僕は、どこかで人じゃない道を選ぼうとしてたかもしれない、今も人間じゃないものへの憧れはちょっとあったりする。
格好悪い話かもしれないんだけど、自分はどこかで、ちゃんと人として生活できていないという自虐を、誉れと思って言ってるところがある。
怪物的なものでありたいという欲。 人じゃなく、面白いものだけ吐き続けるやばいやつでいたい気持ちが一方であって。

今回の脚本の中にも、「私たちはまだ話し合っていない」というセリフを書いていて、ああ、自分はこうなんだなって思って。 人として、話さない、話せないのか。話し合えない、なのかわかんないけど。
ただ、最近の僕のテーマが「いかに人のナラティブ(語り)を受けるか」。
怪物だけど、人の語りとかを聞き出せる怪物にはなれないのかな、と。人の話をただただ聞いて「そうか」っていう怪物。それだったら、なれるのかなと。

俳優や他者にも怪物的な面を見たいなって思うところがあって。人間をどこかで超えてってくれたらちょっと嬉しいかもとか。
ただそれを強く求めるのは怖いことでもある。一方で、ハードな稽古でなくても、そういう瞬間は意外と、(その人そのものではなく)他者になろうとする、別人であろうとする……「ありのままの自分」ではなく……ちっちゃな稽古の積み重ねで、できるんじゃないかなとか思ってはいるかな。

中島:
俳優が別人になることを最初から目指して、達成しなければならないゴールとして設定しちゃうと苦しいけど、スタートは人間として始まり、こんにちは、今日もよろしくお願いしますから始まって、いつの間にか知らないところに行けるのが理想です。

俳優へのフィードバック

山本:
でも難しいのは、そういうゴール、僕が持ってんだろうなと思わせてしまうと、みんなすごく間違えちゃいけない、一直線で行かなきゃいけないっていう感じになってしまうから難しい。
ただ、「ありのままの自分」を引き出すとは違うベクトルのゴールになればいいなとは思ってる。

中島:
学生さんたちは山本さんに対してどんな感じなんですか?
恐れ多いみたいな感じなのか、あんまり年齢とかは関係ないみたいな感じなのか。

山本:
みんな丁寧に接してくれてる感じがする。
ただ、気をつけなきゃいけないなとは思う。フィードバックとかしてる時に、俳優がすごく「怒られた」って顔をしてる時がちょっとあるなと思っちゃって。
別にこう見えたんだよなって伝えても、 どうしても、「私足りないっすよね」っていう顔になっちゃうんだなと思って

中島:
やっぱり今、稽古場で俳優も演出も、どっちも気にしてると思うんですよね。
俳優さんって、言外のことをすごく受け取ってることが多いし。
フィードバックを受ける側は、どうしても自分自身と自分の演技が密接に関わっているので、自分自身を否定されたるみたいな感覚になっちゃうと思うんですよね。 でも、その人自身じゃなく、今やったアクションに対してのフィードバックなので。

山本:
今こうだったね、じゃあ次こうやってみようか、みたいなくらいでいいんだよね。

中島:
それは演出家の伝え方というか、言葉の選び方も重要だと思います。
常に面白くあらねばならぬみたいなこととか、正解は演出家にあるみたいなことを思ってる人も多いから、最近の自分は、「どう解釈してもらっても大丈夫ですよ」と言うようにしてます。
作品を真ん中に置く。私だけが正解を持ってるのを見せるんじゃなくて、台本は、演出家と俳優の間にあって、みんなで囲んで見るみたいなことが、感覚としてできるといいなと思っています。

山本:
それで小島くんから提案されたのが、こういう稽古の仕方どうですかねって。
脚本を読んだあと、役者が各々こういうふうにやりたい、私は何々するっていう目標を出してもらう。で、 とりあえずやってみて、その後、俳優、観察者、演出家が一言ずつコメントするっていう仕組みにした。

そうすると演出家が司会者って立ち位置みたいになった。最後に演出家として、俳優が出してきた目標に関してちょっとコメントするって決めて。
仕組みの中に「俳優から一言」って作られてるから、俳優も自分の演技について言えるなっていう風に。
僕自身もこういう感じの稽古は今までやったことがないから、稽古の練習をさせてもらってる感じがすごいしている。

中島:
重荷すぎると、本当にこの荷物を背負えるのかなって感じになりますもんね。
演技って、別に唯一の正解なんてなくて、全部が正解。なんかしっくりこなかったとしても、ダメだったってことじゃないから、気にしないでってよく言うようにしてます。
とりあえずやってもらって、やってみてどうだった?を聞くというのは、結構やってます。

希望と絶望

山本:
コロナの時とか、ちょっと自分の中で挫折しちゃって、もうお芝居できないなあって。予算の都合上、音響も照明も使えないだろうし、俳優もできて一人だろうなと思って、一人芝居の脚本を書こうと思って書き始めて。
で、何書こうかなと思ったら、自分が幼稚園時代が一番言葉ができなかったのに、感情的なものがいろいろあったなと思って。

小学生の時、俺が「私は」って言っちゃったら、女だっていう風に囃されて。で、「女はドッヂボールに入れない」って言われて。
男子たちのドッチボールに入れて欲しくて、心からそう思って頼んでも笑われるだけだったなと思って。 でもドッチボールで派手な当たり方すると入れてくれたことから、そうか、心の底から人と話すんじゃなくて、笑わせるとドッチボールに入れてくれるんだなとか思ったり。
そんなこともあってか、絶対女子と話さないようにしようみたいな気持ちが小学校の頃はあって、僕にあの時言葉があったら、こんなこと言うかなっていうとこから、幼稚園児にしては異様に語彙のあるやつが一人で喋ってるっていう話を作ってみようって。

でも、やってみればみるほど、俺の根底にある、なんだろう…… ちょっとバランスの悪い感じとか、無自覚な、ある種の対話を拒否する態度とかが脚本から感じられてきて。
理性的にあらねばならんみたいなことを思ってるんだけど、俺の根底って、人と話さないことや排除を前提にしたりとか、多様性ってものが全然落とし込まれてないんだろうなっていうのが、ちょっと自分の中でおっかないなと思って。

中島:
この脚本(参考:『永遠幼稚園』脚本はこちらから)、ほとんどモノローグじゃないですか。一人芝居で、この人が絶対的な存在になっちゃうと、受け取る側も難しいなあと思いながら読みました。
(主人公の)タケ君が そういうふうに思っちゃうことは認めていいんだけど、正当化されていいものかどうかとはまた別というか。相対化できる何か、誰かによって、タケ君が絶対じゃない状態にする必要があるんじゃないかなと。
たった一人が舞台上で演じる形だと、主張を「聞かされる」時間になっちゃうみたいな。

山本:
タケ君が正義かのように見えちゃう……この作家もそう思ってるんじゃないの? みたいな風に。そう見えちゃうんだなと思って。自分でもある種ダメな風に書いてるつもりでも、タケ君がやっぱヒロイックに見えちゃうようになっちゃうよね。

中島:
たぶん、環境に興味があるんですよね。幼稚園生でさえも、こういう環境の中だとこういう振る舞いをさせられてしまうっていうことを見たいというか。 彼が何を考えてるかも、もちろん重要なんだけど、何がそうさせるのかっていうところの方が、わざわざ演劇で見られる部分だから。

彼に見えていた世界のお話に終始しそうなところを、他者の存在をまず認識するというだけでも、全然広がりが違うような気がしていて。自分だけで生きてたら、話せないっていうことにそもそもぶつからないじゃないですか。話すのムズって思うってことは、話そうとはしてるってことだから、一個希望に捉えてもいいんじゃないかって思ったりとかします。

山本:
希望、絶望でいうと、安易に希望できないなっていうのもすごくあった。そんな絶望を見せたいの? って言われるとちょっと難しいけど。でも自分の中で、観客を喜ばせるために希望を謳っちゃうのは、一番コミュニケーションしてない気がして

中島:
なるほど。確かにな。そこの塩梅って難しいですよ。
希望を描こうとするつもりが、別の誰かを切り離してしまうこともありますよね。
私は、むずいけど、やっぱり信じたいなって思って書いてるところがあって、世界はこうであってくれで終わりたい。少なくとも自分自身は、テーマになってるようなことを顧みるきっかけになってるし、お客様にとっても、スタートラインに立つみたいな体験になったら。

山本:
僕は絶望を楽しんじゃう。 絶望を味わってると逆に元気出る感じ。そっちの方が安心なのかな? ……怪物にとっては居心地がいいのかも。いい絶望を聞くと、逆に頑張る、みたいなのが、僕の中ではあったかもなあ。

中島:
今回、山本さんが自分のことを掘り下げて、男性性みたいなところを描いたこと、そのことについて世代を超えて話せたらお互いにとっていいんじゃないかと思ってます。
いいへんじの稽古場で、テーマに関する本を輪読して、みんなで考えたことを喋る時間を設けたことがありました。立場が違うからこそ、教える教えられるのじゃなくて、 一緒に考えるきっかけになるといいですよね。

最後に

中島:
私も学生時代、演劇をどうやって作るのかとか、どういうふうに人とコミュニケーションを取るかとか、めっちゃ試行錯誤してたなと思って。
失敗もしたし、人を傷つけちゃったこともあったし、自分は演出があんまり向いてないんじゃないかって思ったりしたこともあったけど、学生のうちに色んな経験をしたからこそ、「役割の前に人間なんだ」っていうこととか、「この人は自分と違う人間なんだ」ってことに気づけて、稽古の中での対話を大事にしたいなって思えるようになりました。

だから、今の学生のみなさんも、いろんな人と出会って、いろんな価値観とぶつかって、その中で自分がやりたいことを見つけていってもらえたらいいなと思ったりします
今、自分の課題としては、その対話の範囲を、観客のみなさんのところまでも広げることだなと思っています。
すごい楽しかったです。 ありがとうございます

山本:
今日の話を聞いて、僕には、ある種怪物への憧れと、自分が怪物ではなくさせられてしまうことへの恐怖…… 僕が僕じゃなくなることへの恐怖があるのかもなと思いました。
今の価値観にそぐわないからって、「じゃあ、人間に戻ろうか」と簡単に切り替えられるわけでもなくて。
でも、体調を気遣うとか、言葉がうまく通じなかったとしても、探ろうとし続けることや、耳を澄まして人の話を聞こうとするとか、そうやって、一緒にこう共有して、勉強しようとしたりすることが……自分は「怪物」かもしれないけれど、人の話を聞ける怪物であろうとすること。
なんとか共に生きようとすること。
その方法を考え続けることが、生きるためにも、これからやっていかなきゃいけないことなんだろうなとテーマが少し見えたような感じがしました。

今日はありがとうございました。

(司会・執筆編集:小島淳之介)


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どらま館Labo『永遠幼稚園』
日程:2026/3/5(木)~3/8(日)
会場:早稲田大学GCC Common Center
詳細:『永遠幼稚園』特設HP  


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