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『月が綺麗な夜に、君は笑った』第三章


第三章 「触れたい距離」

「ねぇ。」

仕事帰りだった。

優作のスマホが震えた。

画面には、りな

「今、電話できる?」

珍しかった。

彼女から電話を求めることは滅多にない。

優作はすぐに掛け直した。

「もしもし。」

『あー…。』

声に元気がない。

「どうした?」

『なんでもない。』

「なんでもない人は電話してこない。」

沈黙。

車のエンジン音だけが流れる。

そして、小さく笑った。

『今日ね。』

『部長に怒られて。』

「うん。」

『家帰ったら旦那とケンカして。』

優作は何も言わなかった。

彼女は続けた。

『もう疲れちゃった。』

その一言だけで十分だった。

優作は窓を少し開ける。

夜風が入る。

「りな。」

『ん?』

「今から出れる?」

少しの沈黙。

『うん。』


夜十時。

二人はいつもの居酒屋ではなく、小さなバーにいた。

カウンター。

静かなジャズ。

ウイスキーの氷が鳴る。

「今日さ。」

りなが笑う。

「うん。」

「電話しようか三十分悩んだ。」

「なんで?」

「迷惑かなって。」

優作は笑った。

「俺がお前を迷惑と思ったこと、一回でもある?」

りなは首を横に振った。

「ない。」

「じゃあ迷うな。」

「はい。」

珍しく素直だった。


酒が進む。

笑う。

昔話。

失敗談。

気付けば閉店だった。

外へ出る。

夏の終わりの風。

「送る。」

「うん。」

助手席。

沈黙。

でも苦しくない。

赤信号。

りながぽつりと言う。

「優作。」

「ん?」

「この前さ。」

「うん。」

「好きって言っていいんだよって言ったじゃん。」

優作は少し照れた。

「言った。」

「言えない。」

「知ってる。」

「でも。」

窓の外を見る。

「救われてる。」

優作は息を止めた。

「毎日。」

「優作と話すだけで。」

「飲むだけで。」

「笑える。」

「それだけで救われてる。」

涙ではない。

でも目は少し赤かった。

優作は何も言えなかった。

言葉なんていらなかった。


車は河川敷へ入る。

街灯も少ない。

夜空だけが広がる。

「月。」

りなが指差す。

「綺麗。」

優作も見上げた。

「ほんとだ。」

「ねぇ。」

「ん?」

「この前送ったスタンプ。」

「月が綺麗ですね。」

「意味知らないからね?」

二人で笑う。

「知ってたら送らない?」

「送らない。」

「なんで。」

「恥ずかしいじゃん。」

また笑う。

その笑いが止まった。

静かだった。

風だけ。

二人だけ。

優作は思った。

(今だ。)

でも。

また昔が頭をよぎる。

好きになった人。

泣かせた人。

「好きにさせる悪い男。」

その言葉。

足が止まる。

手も止まる。

すると。

りなが小さく笑った。

「また考えてる。」

「え?」

「優作って。」

「考えすぎ。」

そう言うと、

彼女は自分から一歩近づいた。

肩が触れる。

「今日くらい。」

「何も考えないで。」

優作はゆっくり彼女を見る。

月明かり。

彼女の瞳。

優作は覚悟を決める。

そっと、

りなの手を握った。

りなは驚かなかった。

握り返した。

強く。

少しだけ。

「温かい。」

彼女が呟く。

その一言で、

優作の迷いは半分消えた。

その夜、

二人はキスもしなかった。

抱きしめもしなかった。

ただ、

最後まで手だけは離さなかった。


優作は知らなかった。

この手を繋いだ夜が、

二人の運命を大きく動かす最初の一歩になることを。

──第三章 完


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