「整える」の手前で、ただ呼吸を眺めている。
冬の朝、キッチンに立つ時間は、まるで冷たい水の底にいるように静かです。
まだ夜が明けきらない窓の外は、深い青色。
冷蔵庫の低い駆動音と、やかんがシュンシュンと鳴り始める音だけが、この部屋の時間を刻んでいます。
マグカップを両手で包むと、じんわりと熱が掌(てのひら)に広がります。
その温かさにホッとしながら、自分の指先が思っていたより乾いていることに気づく。
紙をめくるときのような、かさりとした感触。
ハンドクリームを塗り忘れたせい、だけではない気がします。
かつては一晩眠れば戻っていた肌の潤いや、身体の軽やかさが、少しずつ、でも確実に変わってきました。
以前の私なら、この乾きを「劣化」と呼んで、慌てて高い美容液を塗り込んでいたかもしれません。
でも今は、その変化を「ああ、そうか」と、ただ事実として受け止めています。
鏡に映る顔に、うっすらと疲れの影が見える朝。
階段を上りきったときに生まれる呼吸の浅さ。
低気圧が近づくと、じんわり頭の奥が重くなる感じ。
それらは全部、身体が発している小さな「合図」なのだと思います。
“走り方が少し速いよ。”
“息が自分に追いついていないね。”
そんな声を、以前の私はノイズだと思っていました。
かき消して、無視して、元気に振る舞うことが「健康」だと信じていたから。
けれど、年齢を重ねるというのは、
自分の身体という一番近くにいる他人と、ようやく対等に話せるようになることなのかもしれません。
無理にポジティブな言葉で蓋をしない。
サプリメントで数値を操作しようと焦らない。
ただ、その日の身体の「機嫌」を、空模様を眺めるみたいに観察する。
“今日は曇り空だね。”
“湿度が低いから、温かいものを飲もうか。”
そんなふうに、自分自身と静かに対話する時間。
何かを足したり、無理に整えたりするのではなく、
今の自分の輪郭を優しくなぞるようなひととき。
お湯が沸騰し、やかんの口から白い湯気が勢いよく噴き出しました。
その湯気が換気扇に吸い込まれて消えていくのを、ぼんやりと目で追います。
解決なんて、しなくていい。
劇的に変わらなくてもいい。
ただ、自分の身体が発する小さな音に耳を澄ませて、
その変化さえも「生きてきた証(あかし)」として愛おしむこと。
白湯を一口、喉に流し込みました。
身体の内側が、じんわりとほどけていく感覚が広がります。
窓の外では、朝の光がアスファルトを白く照らし始めていました。
今日もまた、忙しない日常が始まるのでしょう。
けれど、このキッチンで過ごした数分間の静寂が、私のお守りになってくれる気がします。
整える前に、ただ呼吸を眺める。
それが私にとっての、ささやかなウェルビーイングな時間です。
