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スティーブンホーキングによろしくを 九章 量子力学

量子力学は、よく小さな粒子の不思議な話として語られる。
粒子が波のように広がる。
観測すると状態が決まる。
遠く離れた粒子同士が、まるでつながっているように振る舞う。

たしかに、それは奇妙だ。

だが、この本の視点から見ると、量子力学が本当に問いかけているのは、
もっと根本的な問題である。

現実とは、いつ、どこで、どうやって確定するのか。

僕たちは普段、世界は最初から一つに決まっていて、
ただそれを知らないだけだと思っている。

けれど量子力学では、どうもそう単純ではない。

観測する前の世界には、いくつもの可能性が重なっているように見える。
そして観測が入ると、その中の一つが現実として立ち上がる。

しかも、その結果は完全に機械的に決まるのではなく、
どこかにランダム性を残している。

この「可能性」「観測」「確定」「ランダム性」という組み合わせは、
情報宇宙仮説にとって非常に重要な入口になる。

物質宇宙では、粒子や波が動く。
情報宇宙では、その出来事が記録され、照合され、共有される。
その合意が進むことで、僕たちが見る「現実」が立ち上がるのではないか。

この章では、量子力学を小さな粒子の奇妙な現象としてではなく、
現実がログに登録され、共有され、確定していく過程として読み直してみたい。


1. 二重スリット実験

――観測とはログへの登録である

量子力学の不思議さを説明するとき、必ずと言っていいほど出てくる実験がある。
それが、二重スリット実験だ。

仕組みはシンプルである。

粒子を一つずつ飛ばし、その途中に二つの細い穴、つまりスリットを置く。
普通に考えれば、粒子は右の穴か左の穴のどちらかを通り、奥のスクリーンに点として当たるはずだ。

ところが、どちらの穴を通ったのかを調べずに実験すると、スクリーンには波のような干渉縞が現れる。
まるで粒子が、右の穴と左の穴の両方を通り、それぞれの可能性が重なり合っているかのように振る舞う。

しかし、どちらの穴を通ったかを観測すると、干渉縞は消える。
粒子は、右か左のどちらかを通ったものとして振る舞い始める。

ここでよく言われるのが、

「観測すると、粒子の状態が決まる」

という説明である。

だが、この言い方だけでは少し誤解を招きやすい。
人間が意識して見たから世界が決まる、という話に聞こえてしまうからだ。

僕の情報宇宙仮説では、ここを少し違う言葉で考えたい。

観測とは、ただ見ることではない。
出来事が宇宙のログに登録されることなのではないか。

粒子がどちらのスリットを通ったかを測定する。
すると、その情報は測定器に残る。
測定器は周囲の環境と相互作用し、その痕跡はさらに空気、光、壁、装置、記録媒体へと広がっていく。

つまり、粒子の経路は単なる可能性ではなく、
他のものと関係を持った出来事になる。

このとき、粒子は「右を通った」あるいは「左を通った」という履歴を持つ。
その履歴がログとして残ることで、粒子は粒子的な現実として確定していく。

逆に言えば、観測されていない段階では、まだ経路情報がログに登録されていない。
右を通ったとも、左を通ったとも言い切れない。
そのため、粒子は可能性の広がりとして振る舞い、波のような干渉を示す。

ここで重要なのは、観測者は人間だけではないということだ。

測定器も観測者である。
空気分子も、壁も、光も、周囲の環境も、出来事の痕跡を受け取るなら観測者になりうる。

この意味で、観測者とは、

出来事を受け取り、記録し、他の状態とつなげるノード

である。

仮想通貨のマイニングにたとえると、少し分かりやすい。

ブロックチェーンでは、出来事を勝手に台帳へ書き込むことはできない。
条件を満たすハッシュを見つけ、それが証明書のように働くことで、その記録は正式なブロックとして承認される。

量子の観測も、これに似ているのかもしれない。

粒子の出来事が起こる。
それが測定器や環境というノードに受け取られる。
周囲の状態と矛盾しない形で記録される。
そのとき、その出来事には一種の「証明書」が付く。

すると、可能性だったものが、現実のログとして登録される。

つまり二重スリット実験は、こう読み替えることができる。

観測されていない粒子は、まだログに登録されていない可能性の広がりである。
観測された粒子は、経路情報がログに残り、関係性を持った現実として確定する。

この見方に立つと、二重スリット実験は単なる「粒子と波の不思議な実験」ではなくなる。

それは、

現実とは、どの段階でログに登録されるのか。
そして、記録される前の世界はどのように存在しているのか。

という問題になる。

粒子は最初から完全に決まった小さな玉ではない。
かといって、ただの幻でもない。
それは、まだ記録されていない可能性として広がり、観測によって関係性を持ち、ログに登録されることで粒子として確定する。

そう考えると、観測とは世界を見る行為ではない。

観測とは、出来事に証明書を与え、宇宙のログへ登録する行為なのかもしれない。


2. 観測者はノード(端末・拠点)である

――現実に証明書を与えるもの

二重スリット実験では、観測すると結果が変わる。

ここでいう観測とは、ただ人間が目で見ることではない。
測定器が反応する。
記録装置に情報が残る。
その情報が周囲の環境と結びつく。
この一連の流れが、出来事を「現実のログ」として登録していく。

僕の仮説では、観測者とは、世界の外から眺めている存在ではない。

観測者とは、出来事を受け取り、記録し、他の記録と照合するノード(端末・拠点)である。

このノードは、人間だけではない。
測定器、空気分子、壁、光、周囲の環境も、出来事の痕跡を受け取ればノードになりうる。

ただし、人間のような観測者には、少し特別な性質がある。

人間はただ反応するだけではない。
「何を測るか」を決める。
「どの条件で測るか」を決める。
「その結果をどう記録するか」を決める。
つまり、目的・記憶・判断・装置・記録をまとめて持っている。

これは、単なる粒子同士のすり合わせよりも、かなり大きな情報構造である。

粒子同士が周囲と少しずつ関係を作り、パズルのように候補を絞っていくには時間がかかる。
けれど、観測装置や人間が意図を持って測定すると、その出来事は一気に大きな情報ネットワークへ接続される。

それは、仮想通貨で言えば、条件を満たしたハッシュが見つかり、ブロックに証明書が付くようなものだ。

出来事が起こる。
ノードがそれを受け取る。
周囲の記録と矛盾しない形で登録される。
すると、その出来事は「現実のログ」として強く確定する。

ここで重要なのは、観測者が結果を自由に選んでいるわけではない、ということだ。

観測者が決めるのは、主に「何を問うか」である。
しかし、その問いに対してどの結果が出るかには、量子的なランダム性が残る。

そして僕は、このランダム性こそ、宇宙の仕組みにとって非常に重要なのではないかと思っている。

もし世界が完全に決まりきった処理だけで進むなら、同じ条件では同じ結果しか出ない。
同じ失敗を何度も繰り返す可能性がある。
ゲームでも、完全に固定された世界より、適度なランダム性がある方が、探索が生まれ、展開が変わり、予想外の解決が起こる。

宇宙も同じかもしれない。

観測とは、単に現実を固定するだけではない。
無数の可能性の中から、どの現実がログに登録されるかを決める場でもある。

そこには、完全な決定論ではなく、ランダム性が入り込む。

そのランダム性は、世界を不安定にするだけのノイズではない。
むしろ、宇宙が同じ形に固まりすぎず、新しい経路を試すための余白なのかもしれない。

つまり観測者とは、現実をただ見る存在ではない。

観測者とは、出来事に証明書を与えるノードであり、
同時に、宇宙に新しい分岐とランダム性を持ち込む存在なのかもしれない。


3. デコヒーレンス

――現実はパズルのように確定していく

二重スリット実験では、観測されていない粒子は、波のように広がっているように見える。
右のスリットを通ったとも、左のスリットを通ったとも言い切れない。
いくつもの可能性が、まだ重なったまま残っている。

では、その可能性はどうやって一つの現実へ近づいていくのだろうか。

ここで重要になるのが、デコヒーレンスという考え方である。

デコヒーレンスとは、簡単に言えば、
量子的な重ね合わせが、周囲の環境との関わりによって見えなくなっていく現象である。

粒子は、単独でふわふわと存在しているわけではない。
周囲には、光がある。
空気分子がある。
測定器がある。
壁がある。
他の粒子がある。

粒子がそれらと関わるたびに、
「どんな状態だったのか」という情報が、少しずつ周囲へ広がっていく。

ここで、パズルの比喩を使って考えてみたい。

ある粒子Aが、最初は9種類のピース候補を持っているとする。

まだ、どの形なのかは決まっていない。
丸いピースかもしれない。
角のあるピースかもしれない。
青いピースかもしれない。
赤いピースかもしれない。

だが、粒子Bや測定器、周囲の環境と関わると、少しずつ候補が減っていく。

「この形だと、隣のピースと合わない」
「この色だと、全体の絵とつながらない」
「この向きだと、さっきの記録と矛盾する」

そうやって、合わない可能性が一つずつ消えていく。

最後に残るのは、周囲のピースと矛盾なくつながる形である。

僕たちから見ると、それが
「粒子の状態が確定した」
ということになる。

つまり現実は、一つの粒子だけで決まるのではない。
周囲とのすり合わせによって、だんだん固まっていく。

ここが、僕の情報宇宙仮説と強くつながる。

物質宇宙では、粒子や波が相互作用する。
一方、情報宇宙では、その相互作用の痕跡がログとして広がっていく。

最初は、まだ局所的な情報でしかない。
しかし、環境の多くの部分にその情報が共有されるほど、
その出来事は消しにくくなる。

たとえば、誰か一人のメモにだけ書かれた情報なら、まだ消せるかもしれない。
しかし、同じ内容がたくさんの人の日記に書かれ、写真に残り、記録媒体に保存され、周囲の出来事と結びついたら、もう簡単には消せない。

量子の世界でも、似たことが起きているのではないか。

粒子の状態が、環境という無数のノードに記録されていく。
その記録が広がるほど、現実は強く確定していく。

だから、現実の確定は、スイッチのように一瞬で0から1へ切り替わるものではないのかもしれない。

むしろ、

可能性がいくつもある状態から、
周囲とのすり合わせによって、
矛盾しない形だけが残っていく

という過程なのではないか。

これが、デコヒーレンスを情報宇宙仮説から見たときのイメージである。

ここで大事なのは、デコヒーレンスが「人間が見たから起こる」ものではないという点だ。

人間が見ていなくても、環境は常に見ている。
空気分子も、光も、壁も、測定器も、出来事の痕跡を受け取る。
それらが無数のノードとして働き、現実の候補を絞っていく。

だから、観測とは人間の意識だけの問題ではない。
現実が周囲の環境と結びつき、ログとして共有されていくことなのだ。

この見方に立つと、デコヒーレンスとは、
量子の曖昧さが消える現象というより、
現実が環境に共有されていく過程だと言える。

まだ誰にも記録されていない可能性は、波のように広がる。
だが、周囲と関係を持ち、記録が増え、すり合わせが進むと、
その可能性は一つの現実として固定されていく。

現実とは、最初からそこに一枚だけ置かれているものではない。
宇宙全体のパズルの中で、矛盾なくはまった状態なのかもしれない。

そして、そのパズルが大きくなればなるほど、
一度はまったピースを外すことは難しくなる。

これが、量子の世界から古典的な世界へ移る境目なのではないか。

小さな粒子だけなら、まだ可能性は揺れている。
しかし環境とつながり、ログが広がり、すり合わせが進むと、
僕たちの知っている「確定した現実」が立ち上がる。

つまりデコヒーレンスとは、
現実のピースがパズルのようにすり合わせられ、確定ログとして固まっていく過程なのかもしれない。


4. 量子消しゴム

――完全に固まる前なら、読み方を変えられる

デコヒーレンスを、現実のピースがすり合わされていく過程だと考えると、
次に気になる実験が出てくる。

それが、量子消しゴムである。

量子消しゴムは、名前だけ聞くと、まるで過去を書き換える実験のように見える。
実際、この実験はよく「後から情報を消すと、過去の粒子の振る舞いが変わったように見える」と説明される。

だが僕は、この実験を少し違う形で考えたい。

量子消しゴムは、過去を書き換える実験ではない。
むしろ、

まだ完全に固まりきっていないログの読み方を変える実験

なのではないか。

二重スリット実験では、粒子がどちらのスリットを通ったかという情報が残ると、干渉縞は消える。
これは、経路情報がログとして残り、粒子が「右を通った」「左を通った」という現実に近づくからだ。

しかし、その経路情報がまだ局所的なところにしか残っていない場合はどうだろう。

たとえば、ある測定器や別の粒子にだけ情報が残っている。
まだ環境全体へ広がっていない。
まだ多くのノードに共有されていない。
まだ宇宙全体のパズルの中で、完全にはめ込まれていない。

この段階なら、その情報の読み方を変える余地がある。

どちらの道を通ったかが分かる形で読むのか。
それとも、どちらの道を通ったか分からない形に戻すのか。

量子消しゴムでは、この「どちらの経路情報を読める状態にするか」が重要になる。

経路情報が残っているなら、粒子は粒子的に振る舞い、干渉は消える。
しかし、その経路情報を消した形で見ると、波としての干渉が再び現れる。

ここで大切なのは、過去の出来事そのものが変わったわけではないということだ。

変わっているのは、
どの情報をログとして読める状態にするか
である。

つまり、量子消しゴムは、

過去を変える実験ではなく、
まだ完全に共有されていない情報の読み方を変える実験

だと考えられる。

この見方は、情報宇宙仮説とかなり相性がいい。

現実は、一瞬で完全に確定するのではない。
まず小さな相互作用が起きる。
その情報が局所的に残る。
それが周囲のノードへ広がる。
環境とすり合わされる。
そしてだんだん、消せないログになっていく。

この途中の段階では、まだ「どの情報が現実として強く残るか」に余地がある。

パズルで言えば、ピースがまだ仮置きされている状態だ。
この場所に置けるかもしれない。
別の場所にも置けるかもしれない。
周囲のピースとまだ完全には固定されていない。

だから、少し動かせる。
向きを変えられる。
別の見方で、全体の絵を組み直せる。

しかし、一度そのピースが周囲の多くのピースとつながり、
全体の絵の中に深く組み込まれてしまえば、もう簡単には動かせない。

量子消しゴムができるのは、この「まだ完全に固まる前」の段階なのだと思う。

だから、量子消しゴムには限界がある。

情報が測定器の中だけに残っているなら、まだ消せるかもしれない。
別の粒子との相関として残っているだけなら、まだ読み方を変えられるかもしれない。

だが、その情報が空気、熱、振動、光、壁、記録装置、観測者の記憶、さらに周囲の環境全体へ広がってしまえば、もう簡単には消せない。

それは、誰か一人のメモなら消せても、
同じ内容が無数の日記、写真、記録、記憶に広がってしまったら、もう消せないのと同じだ。

ここで、3節のデコヒーレンスと4節の量子消しゴムがつながる。

デコヒーレンスとは、現実のピースが環境とすり合わされ、確定ログとして固まっていく過程である。
量子消しゴムとは、そのログが完全に固まりきる前なら、どの情報を読むかによって、まだ波としての余地が残ることを示している。

つまり、現実の確定には強さがある。

完全に未確定な状態。
局所的に記録された状態。
環境に広がり始めた状態。
多くのノードに共有された状態。
そして、ほとんど消せない古典的な現実。

量子消しゴムは、この途中段階を見せているのかもしれない。

だから僕は、この実験をこう捉えたい。

量子消しゴムとは、過去を書き換える実験ではない。
まだ完全に確定ログとして固まる前の情報を、どの形で読むかを変える実験である。

この見方に立つと、量子の不思議さは少し整理される。

過去が変わっているのではない。
因果律が壊れているのでもない。
ただ、現実が完全に固まる前の段階では、情報の読み方によって、波としての性質が戻ってくる場合がある。

つまり、量子消しゴムはこう教えているのかもしれない。

現実は一瞬で固まるのではない。
ログが共有され、すり合わされ、消せない形になるまでには、段階がある

そしてその段階こそが、
量子の世界と、僕たちが普段見ている現実の世界との境目なのではないか。



5. シュレーディンガーの猫

――猫は箱の中で、すでにログを持っている

量子力学の有名な思考実験に、シュレーディンガーの猫がある。

箱の中に猫がいる。
その箱の中には、放射性物質、検出器、毒ガスを出す装置が入っている。

もし放射性物質が崩壊すれば、検出器が反応し、毒ガスが出て猫は死ぬ。
崩壊しなければ、毒ガスは出ず、猫は生きている。

量子力学では、放射性物質の崩壊は確率的に扱われる。
観測されるまでは、崩壊した状態と崩壊していない状態が重なっているように書ける。

では、箱を開けるまでは、猫は生きている状態と死んでいる状態が重なっているのか。

この話は、よく「猫は半分生きていて半分死んでいる」という奇妙なイメージで語られる。
だが、僕はここを少し違う角度から見たい。

問題は、猫が本当に半分生きて半分死んでいるかではない。
問題は、誰のログに、どこまで結果が登録されているかである。

箱の外にいる人間から見れば、箱の中の結果はまだ分からない。
だから外の人間のログには、

猫が生きている可能性
猫が死んでいる可能性

の両方が残っている。

だが、箱の中ではどうだろうか。

もし放射性物質が崩壊したなら、検出器は反応している。
装置は作動している。
毒ガスは出ている。
猫の体はその影響を受けている。
箱の中の空気、温度、匂い、物質の配置も変わっている。

つまり、箱の中ではすでに多くの相互作用が起きている。

猫自身の体も、装置も、空気も、箱の内側の環境も、
その結果を受け取り、記録している。

情報宇宙仮説で言えば、
箱の中ではすでにローカルログ(局所的な記録)が作られ情報宇宙に記録されている。

だから、外の人間が箱を開けるまで、宇宙全体で何も決まっていない、というわけではない。
少なくとも箱の中の環境にとっては、結果はすでに現実として成立している。

人間は箱を開けたとき、初めて現実を作るのではない。
すでに箱の中で成立していたローカルログを、自分のログに同期しているのだ。

ここが大事だと思う。

観測とは、世界を魔法のように作ることではない。
すでにどこかで成立しているログを、別のノードが受け取り、自分の記録へ接続することでもある。

箱の中の猫にとって、現実は箱の中で完結している。
猫の体、装置、空気、周囲の環境が、結果をすでに共有している。

一方、箱の外の人間にとっては、まだ結果が分からない。
外部ログには、まだその情報が同期されていない。

だから、外から見ると「重ね合わせ」のように見える。
しかし箱の内側では、すでに一つの履歴が進んでいる。

この見方に立つと、シュレーディンガーの猫は、
「意識が現実を作る」という話ではなくなる。

むしろそれは、

現実はどの範囲で、どのログに登録されているのか

という問題になる。

箱の中では、結果は箱の中の環境に記録されている。
箱の外では、まだその結果が共有されていない。
そして箱を開けることで、内側のログと外側のログが接続される。

つまり、シュレーディンガーの猫とは、
ローカルログと外部ログの同期問題なのかもしれない。

この考え方は、前のデコヒーレンスの話ともつながる。

猫のような大きな存在は、周囲の環境と常に大量の相互作用をしている。
体温、呼吸、空気分子、光、音、匂い、細胞内の化学反応。
それらすべてが、猫の状態を環境へ記録している。

だから、猫のようなマクロな存在では、量子的な重ね合わせはすぐに環境へ散らばり、ほとんど一つの現実として見えるようになる。

これがデコヒーレンスである。

つまり、猫は単独の量子粒子とは違う。
猫はすでに、膨大な環境ノードとつながった存在である。

猫の状態は、猫だけの中に閉じているのではない。
箱の中の環境全体に、すでに広く記録されている。

だから僕は、こう考えたい。

猫は、箱を開けた瞬間に初めて現実になるのではない。
猫と箱の中の環境は、すでに一つのローカルな現実を作っている。

人間が行うのは、その現実を自分たちのログに記録し接続することだ。

これは日常の感覚にも近い。

誰かが部屋の中で花瓶を割ったとする。
外にいる人は、まだそれを知らない。
しかし、部屋の中では花瓶はすでに割れている。
床に破片が散らばり、音が鳴り、空気が揺れ、そこにいた人の記憶にも残っている。

外の人がドアを開けた瞬間に、花瓶が割れるわけではない。
外の人は、すでに部屋の中で起きていた出来事を知るだけだ。

シュレーディンガーの猫も、これに近いのかもしれない。

ただし、量子の世界では、その「部屋の中でどこまでログが固まっているか」が問題になる。
小さな粒子だけなら、まだ可能性は揺れている。
しかし猫のように環境との相互作用が大きい存在では、ログは急速に広がり、ほとんど消せない形で固まっていく。

だから、猫の実験が示しているのは、
「猫が本当に半分生きて半分死んでいる」ということではなく、
量子の曖昧さがどこで古典的な現実へ変わるのか、という境目である。

情報宇宙仮説では、その境目をこう見る。

現実は、単独の粒子の中で決まるのではない。
環境とのすり合わせによってログが共有され、
その共有範囲が広がるほど、現実として固まっていく。

この意味で、シュレーディンガーの猫は、
観測問題を「意識」の問題から「ログの同期」の問題へ移すための、非常に重要な思考実験だと思う。

箱の中では、箱の中の現実がある。
箱の外では、外の観測者の未同期ログがある。
箱を開けたとき、その二つが接続される。

つまり猫は、世界が一瞬で全体確定するのではなく、
局所的に記録され、環境とすり合わされ、後から他のログへ同期されていくことを教えているのかもしれない。


6. 量子もつれ

――離れていても、同じ台帳を共有している

量子力学の中でも、特に不思議に見える現象がある。
それが、量子もつれである。

量子もつれとは、二つ以上の粒子が、互いに深く関係づけられた状態のことだ。

たとえば、二つの粒子AとBがもつれた状態で作られたとする。
その後、Aを地球に置き、Bを遠く離れた宇宙の彼方へ飛ばしたとしても、
Aを測定すると、Bの状態もそれに対応する形で決まる。

この話だけ聞くと、まるでAからBへ、光より速い信号が飛んだように感じる。

アインシュタインが量子もつれを気味悪く感じたのも、そこだった。
離れた場所にあるもの同士が、一瞬で関係しているように見える。
これは、相対性理論の「情報は光速を超えて伝わらない」という直感とぶつかる。

しかし、ここで誤解してはいけない。

量子もつれは、光より速くメッセージを送る仕組みではない。
Aを測った人が、Bに好きな情報を送れるわけではない。
測定結果にはランダム性があり、それを使って自由に通信することはできない。

では、何が起きているのか。

僕の情報宇宙仮説では、ここをこう考えたい。

量子もつれとは、離れた二つの粒子が、情報宇宙側では同じ台帳を共有している状態なのではないか。

物質宇宙では、AとBは遠く離れている。
距離がある。
空間的には別々の場所にある。

しかし情報宇宙側では、AとBは最初から一つの関係として登録されている。
それぞれが別々の粒子として存在しているように見えても、
その背後には、同じログ、同じ証明書、同じ関係性がある。

たとえるなら、二つの紙に同じ番号の伝票が貼られているようなものだ。
紙は別々の場所に送られても、伝票番号は同じである。
片方を確認すれば、もう片方との対応関係も分かる。

あるいは、ブロックチェーンで言えば、
二つのノードが同じ取引履歴を共有している状態に近い。

片方のノードだけを見れば、そこには一つの記録がある。
もう片方のノードにも、同じ記録との対応がある。
二つは別々の場所にあるが、同じ台帳の一部としてつながっている。

量子もつれも、これに似ているのかもしれない。

Aを測定するということは、A側のログに結果を登録することだ。
その結果はランダムに見える。
しかし、AとBは同じ情報構造を共有しているため、
Bを測ったときには、Aと矛盾しない結果が出る。

ここで重要なのは、Bに新しい情報が光速を超えて送られたのではないということだ。
AとBは、もともと同じ関係性の中にあった。
測定によって、その関係性の一部が現実のログとして表に出た、と考える方が自然である。

つまり、量子もつれとは、

「空間を飛び越えて通信している現象」

ではなく、

「空間的には離れていても、情報構造としては同じログに属している現象」

なのかもしれない。

この見方に立つと、「一瞬で決まる」という表現も少し変わってくる。

物質宇宙の側から見ると、AとBは遠く離れている。
だから、片方を測った瞬間にもう片方も対応するように見えると、不思議に感じる。

しかし情報宇宙側から見ると、AとBは最初から同じ関係性の中にある。
距離によって切り離されているのは、物質宇宙側の見え方であって、
情報宇宙側では、二つは一つの構造として扱われている。

ここで、第2章の「二重の宇宙」の話が戻ってくる。

物質宇宙では、距離がある。
情報宇宙では、関係がある。

物質宇宙では、AとBは遠い。
情報宇宙では、AとBは同じログに結びついている。

この二つを同時に見ると、量子もつれの不思議さは少し整理できる。

もちろん、これは標準的な量子力学をそのまま置き換える説明ではない。
量子もつれには、ベルの不等式や非局所相関といった非常に厳密な議論がある。
「粒子が最初から答えを隠し持っていた」と考えるだけでは、実験結果を説明できないことも分かっている。

だから、単純に

Aは最初からこの値を持っていた
Bも最初から反対の値を持っていた

という話ではない。

そうではなく、AとBは、測定される前から独立した二つの完成品ではなかったのだと思う。

二つは、関係として存在していた。
そして測定によって、その関係がログに登録される。
その結果、二つの粒子は互いに矛盾しない現実として確定する。

この意味で、量子もつれは、情報宇宙仮説にとって非常に重要である。

なぜならそれは、現実が「物の位置」だけではなく、
「物と物の関係」によって成立していることを示しているように見えるからだ。

粒子とは、単独で存在する小さな玉ではない。
粒子は、他の粒子や環境との関係の中で、現実として立ち上がる。

そして量子もつれは、その関係性が、物質宇宙の距離を超えて保存されているように見える現象である。

僕の仮説では、ここに情報宇宙の姿が見える。

情報宇宙とは、出来事や物質を一つひとつ独立に置いている世界ではない。
それらの関係性を保存し、照合し、同期する層である。

だから、AとBが遠く離れていても、
同じ情報構造に属している限り、
その結果は対応し続ける。

この見方に立てば、量子もつれは、
宇宙が単なる物質の集まりではなく、
巨大な関係性のネットワークであることを示す入口なのかもしれない。

そして、そのネットワークの一部が観測され、パズルのピースが確定しログとして登録されたとき、
僕たちはそれを「粒子の状態が決まった」と見ているのではないか。


7. ウィグナーの友人・フラウンシガー=レナー

――事実は誰のログにあるのか

量子力学の観測問題を考えるとき、避けて通れない思考実験がある。
それが、ウィグナーの友人である。

話はこうだ。

箱の中に一人の観測者がいる。
その人を、ウィグナーの「友人」とする。

友人は箱の中で、ある量子の状態を測定する。
友人から見れば、測定した瞬間に結果は一つに決まる。

「Aだった」
あるいは、
「Bだった」

友人はその結果を見て、記憶し、装置にも記録が残る。
箱の中の環境も、その結果と結びついている。

つまり、箱の中ではすでに一つの現実が成立している。

ところが、箱の外にいるウィグナーから見ると、話は少し変わる。
ウィグナーは箱の中をまだ見ていない。
箱の中の友人が何を見たのかも知らない。

量子力学を徹底して適用するなら、
ウィグナーは、粒子、測定器、友人、箱の中の環境をまとめて、
一つの大きな量子系として扱えるかもしれない。

すると、友人にとっては結果が決まっているのに、
ウィグナーにとっては箱全体がまだ重ね合わせのように扱える、という奇妙な状況が生まれる。

ここで問いが出る。

現実は、いつ確定したのか。

友人が見たときなのか。
ウィグナーが箱を開けたときなのか。
それとも、確定というものは、もっと段階的なものなのか。

この問題をさらに鋭くしたのが、
フラウンシガー=レナーの思考実験である。

彼らは、ウィグナーの友人のような状況をさらに複雑にし、
複数の観測者が、それぞれの測定結果をもとに推論し合う設定を考えた。

そこで出てくる結論はかなり強い。

ざっくり言えば、

  • 量子力学は観測者を含む大きな系にも普遍的に使える

  • 測定結果は一つだけである

  • 観測者同士の推論は、互いに矛盾しない形でつなげられる

この三つを、すべて同時には保てないのではないか、という話である。

これだけ聞くと、かなり難しい。

だが、僕の情報宇宙仮説から見ると、ここには同じ構造がある。

問題は、
「現実があるかないか」
ではない。

問題は、
どの観測者のログに、どこまで結果が同期されているのか
である。

箱の中の友人にとっては、測定結果はすでに確定している。
友人の記憶、装置、箱の中の環境には、その結果が記録されている。
つまり、友人側のローカルログでは、現実は成立している。

しかし、外側のウィグナーのログには、まだその情報が入っていない。
ウィグナーにとっては、箱の中の結果はまだ未同期である。

この状態で、友人のログとウィグナーのログを、
最初から完全に同じ一枚の古典的事実として扱おうとすると、矛盾が出る。

フラウンシガー=レナーの思考実験でも、同じことが言える。

複数の観測者が、それぞれのローカルログを持っている。
そのログは、それぞれの立場では正しい。
しかし、それらがまだ完全に同期されていない段階で、
全員の推論を一枚の絶対的な事実としてつなげようとすると、整合しなくなる。

これは、分散台帳のイメージに近い。

あるノードでは、すでに新しい記録が作られている。
しかし、その記録がまだネットワーク全体に広がっていなければ、
他のノードからは未確認のままである。

その段階で、すべてのノードが完全に同じ台帳を持っていると仮定すると、
話がおかしくなる。

量子の観測問題でも、同じことが起きているのかもしれない。

現実は、最初から宇宙全体で一斉に確定しているのではない。
まず局所で記録される。
環境とすり合わされる。
他のノードへ共有される。
そして十分に同期されたとき、僕たちはそれを「客観的な現実」と呼ぶ。

この見方に立つと、
ウィグナーの友人やフラウンシガー=レナーの思考実験は、
「現実が複数ある」という話ではなくなる。

それは、
ローカルログと外部ログ、そして全体ログの同期問題
として見えてくる。

友人にとっての現実。
ウィグナーにとっての未確定。
複数の観測者が持つ、それぞれの推論。

これらを、まだ同期されていない段階で無理に一つの古典的事実として扱うから、矛盾が見える。

逆に言えば、古典的な現実とは、
すべてが最初から一枚岩として存在しているものではないのかもしれない。

それは、記録され、共有され、照合され、
十分に同期されたあとに立ち上がるものなのではないか。

ここで、この章の重要な結論に近づく。

古典的な事実とは、同期済みのログである。

量子力学が奇妙に見えるのは、
そのログがまだ完全に同期される前の段階を、
僕たちが見てしまうからなのかもしれない。


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宇宙の計算が合わないのは、帳簿が一冊足りないからではないか。 このマガジンは、そんなひとつの違和感から始まります。 物質は散逸し、情報は要約される。 時間は流れではなくログであり、 重力は引力ではなくデフラグかもしれない。 ダークマターは見えない物質ではなく、重力の伝わり方の偏りかもしれない。 物理学、仮想通貨、古代哲学。 バラバラに見える三つの世界をつなぐと、宇宙は少し違って見えてくる これは、宇宙を“正しく説明する本”ではありません。 宇宙を“もう一度考えたくなる本”です。

一般人が「物理」「仮想通貨」「古代哲学」から“宇宙の統一モデル”を思いついた話 1、一般人の直感から始まる宇宙論 2、相対論と量子力学…

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