【黒い弁当箱から始まった広島の旅:娘と歩む平和への道】
娘が
「黒いお弁当箱を見たい」
と言ったのは小学5年生の時。学校の教科書で出てきたのだそうだ。
戦争の残酷さや非情さを頭だけではなく感情でも感じて欲しかった私は、広島旅行を決めた。
2人で。
興味を持った時に行くのが良いと思ったのだ。
関東に住んでいる私たちには広島は遠い。
西日本といってもほぼ本州の末端である。
1泊2日を考えていた私は調べに調べた結果、飛行機で行くことを選んだ。成田まで車だ。
2月のその日、雨が降っていた。
寒いし、なんとまあ雨なのか、と少し沈んでいたが、
娘は物心ついてから飛行機に乗るのは初めてだったらしい。心が躍っていた。

広島に着いて真っ先にむかったのは、原爆ドームだった。広島市は私たちの住む地域と比べたら比にならないくらい都会であり、方向音痴の私だとGoogle Mapを使っても???となってしまい、
そこでこっちだよ、と助けてくれたのは娘だった。さすが、現代っ子、頼りになるものだ、と成長を感じたのだった。
そして、都会の中に歪にあっと広がるこの光景。

教科書やテレビでもよく見る建物であったが、いざ実物を見ると大きいような小さいような、なんとも言えない感情となった。
ただ原爆の遺構を未来に残そうとする懸命さをひしひしと感じた。
その後、平和記念館へ。
私も初めての場所。
外国の方も多く、とても静かで厳かな場所だった。娘も然り、誰もが笑ったり、談話する場所ではないと理解していた。ただ、80年前に起きた事実を知る場所であった。
全ての内容を読んだり見たりできなくても、
この空気を知ることができたことは彼女にとって財産となるだろう。
黒いお弁当はそこにあった。

折免シゲコ氏寄贈
爆心地から600m 中島新町
県立広島第二中学校1年生の折免滋(おりめんしげる)さんは、建物疎開作業現場で被爆し、死亡しました。8月9日早朝、母親が、弁当箱をおなかの下に抱きかかえるような姿の遺体を見つけました。滋さんが食べることのできなかったお弁当は真っ黒に焦げていました。
引用元:平和記念資料館のキャプション
娘は、今まで原爆や戦争について、聞いたり教科書から学んだだけで、漠然とした理解しかできていなかったようであるが、資料館や原爆ドームをその目で見ることで、そこに人がいて何万人もの人が亡くなったこと、いかに残酷な被害であったかを実際に起こった出来事として認識できたようである。
その後、2人で記念館の前にあるカフェへ入った。メニューは英語表記もあり、店員さんは外国人観光客に対して流暢な英語を話していた。

わたしは驚いた。広島市では、当たり前に英語が飛び交っていて、それが必要だということも感じやすいのだ。そういえば、路面電車の車掌さんも喋っていた。
なんと魅力的な地なんだろう、と。
住む土地によって語学の必要性やその他の勉学のの重要性の感じ方が異なるのは実に不公平である。
旅行して知らない土地の環境を知ることは子供達にとっても大事なことだな、とひしひしと感じたのであった。
