【喫茶 林間】ジュリアのビスコッティ
ジュリアは、夜景が煌めく東京都内に住んでいる。
仕事のために、混み合う大手町から半蔵門線に乗り-そのまま座席が田園都市線に変化を遂げ-中央林間にやってきた。
いわゆる普通の仕事ができない。毎日同じ場所に同じ時間に通うなんて虫唾が走る。
それがジュリアの特徴だ。
まぁ、誰かに言わせてみれば社会不適合者なのかもしれない。
それでもジュリアは、無職なわけではない。細々ながらも、開業届を提出している正式な個人事業主だ。
そして、今日の仕事場が中央林間なのである。
しかし、ジュリアにとって仕事の話はわりとどうだっていい。仕事においては成果物が大切であり、プロセスについて、事細かに書き残してクッキー缶に入れておきたいとは思わない。
ジュリアが仕事をする理由、お金を稼ぐ理由、引いては-「生きる」理由-は、あらゆる方面で自由かつ豊かな時間を紡ぎ続けること、に他ならない。
だからジュリアにとって大切なのは、
JTCでのキャリアでもなく、S&P500の評価額がいくらなのかでもなく、右手薬指の指輪がハリーウィンストンなのかかどうかでもなく、
過去にいかに幸せな時間を紡ぎ上げてきたのかどうかと、今この瞬間が豊かであるか否かと、また近いうちにそのような時間を持つことができるのかどうか、である。
ジュリアは、場所に囚われない仕事の魅力の一つを、ついでに旅行ができる-新たな環境に身を置ける-ことだと考えている。
せっかくはるばる中央林間にまでやってきたのだから、すぐに帰らず、軽く観光しよう、
それが17時のジュリアの課題だった。
しかし、いうて普通に栄えている街なので、とてつもない大自然や観光地があるわけでもない。
こういう時に便利なのは、カフェだ。
各地のカフェを巡ることほど、一部の女子の心を熱狂的にくすぐるものはないだろう。
ジュリアは、数多のアプリの中からGoogle mapを探し当て、検索欄にカフェと入力し、
駅から徒歩2分の素晴らしい立地に、
『林間』というカフェがあるのを見つけた。
見に行ってみて、入るか決めよう。
そんな気持ちでナビを開始させる。
カフェは2階だったので、入るか少し戸惑ったが、とても良心的なスイーツの値段に背中を押され、入店した。

暖かく深みのある店内に、ずらりとならんだカウンター越しのカップとソーサー。そして、平日17時の喫茶店とは思えないほどの盛況具合。思わず、「お席はありますか?」と聞いてしまったほどだ。まさか、混んでいるとは思わなかった。予想以上に素敵なカフェを見つけたのだと知り、胸が高まった。
おみくじで毎年大吉を引いているジュリアが運良く通されたのは、店の1番奥の、ベランダへ通じる扉のそばの席だ。西陽がテーブルの木目を照らし、灰皿のガラスを輝かせていた。
荷物をテーブルの向かいの席に置き、期待の面持ちでコートをかけ、奥の椅子に座った。
オレンジ色にところどころ発光しているメニューを開く。仕事終わりでお腹がうるさいジュリアの目に留まったのは、「ビスコッティ」だ。母との思い出のお菓子なのである。
しかし、小麦を控えたいし、どうしようかな…と思案していたところ、なんと、「グルテンフリー」と書いてある。

まさかのグルテンフリーの登場にジュリアは歓喜し、カモミールティーと共に注文した。
コーヒーも、かなりこだわりを感じて魅力的だったが、夕方なので我慢したのである。

一つ前の席のふくよかな男性が、私のすぐ右の棚から本を一冊抜き取って行った。
本を自由に読めて、カップを自分で選ぶこともできて、グルテンフリーもあって、喫煙することもできる(ジュリアはしないが)。他にも、お店への圧になってしまうかもしれないからここには書けない、お客様への配慮も目撃した。
「ごゆっくりお過ごしください」と恭しく去っていく店主の、自由な店づくりへのこだわりに、ジュリアは胸を打たれた。
主役のビスコッティは、赤く縁取られたお皿と、白く波打つカップを携えてやってきた。


ジュリアはカップを選びはしなかったが、好きな白色で嬉しかったし、ティースプーンがゴールドだったので満足した。
作業に耽りながら喫茶し、時刻は17時43分。
食器は軽く、視界は仄暗い。
白いレースのスカートの中の前腿が重だるくなり、ジュリアを現実世界に連れ戻す。
さて。
座れるように、18時になる前に電車に乗っておこう。
コートを着ながら、もう来ることのないかもしれない愛おしい空間に、切なさを感じた。
いつでも来れるという当たり前の事実を自分に言い聞かせながら、入口近くのレジへと向かう。
ジュリアが970円を一枚一枚全て小銭で出すのを待ち、さらにスタンプカードの説明をして渡してくれ、軽く小話してくれる店主。
喫茶店を形作る店主の精神的豊かさに触れ、ジュリアは軽い足取りでカツカツと階段を降りて行った。
