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【短編小説】行けるわけないじゃん

行けるわけないじゃん。

「今度試合するけん、見に来て」

思わず彼を見る。  
――その横にいる彼女も、視界に入る。

尖った視線。  
表情だけで分かる。

『断りなさいよ。』

あなたに言われるまでもなく。

唇が、一瞬横に伸びた。  
“い”の音を出そうとして――出ない。

『行けません。』

その言葉は、吸い込んだ息と一緒に体内へ戻り、トゲになった。  
チリリと胸を刺す。

行けません、と言う方が簡単だ。

それなのに―――。

酸素で肺が膨らむ。

彼と私の間にあった酸素。  
それが体内を巡り、奥に隠れていた勇気の種をかき集める。

もう一度、唇を横に伸ばす。

頑張れ、私。

「行、きます」

一巡した酸素が、勇気の種を言葉に変えて外へ出た。

私の答えを聞いた途端、彼の周りの空気が緩む。  
彼女の周りは、軋んだ。

私はもう一度、息を吸い込む。  
全身が酸素を求めていたから。

鼓動が、痛い。

「待ってる」

彼は、私の顔を見つめながらそう言った。

感情が、みぞおちから目元に駆け上がる。  
涙になって、外に出ようとする。

私は顔の筋肉を総動員して、それを堪えた。

「はい」

潤んだ目で、彼を見つめ返す。

ゆっくりと息を吐き出し、肩の力を抜く。  
いつの間にか握っていた拳を緩める。

手汗がすごい。

「仕事あるので、失礼します」

そう言って、二人から離れた。  
大股で。

――少しだけ、時間を巻き戻す。

「お疲れ様でーす」

私はぺこりと頭を下げ、大股で歩いた。  
普段あまり使わない内腿の筋と骨盤が痛い。

「お疲れ様でーす」

女性の声で返事が返ってきた。

私は、2メートル先の床を見つめながら、頭の中で段取りを並べる。  
――考えている“ふり”。

お二人のことは気にしてません。  
どうぞ会話をお続けください。

全身で、そうアピールしながら。

男性からの返事はなかったけど、気にしない。

「ダサ」

私が真横に来た時、女性の声が呟いた。

……知ってますー。  
そんなこと、毎日自分が思ってますー。

今の私の格好は、肩下まで伸びた髪を一つに結び、給食帽の中にたくし込んで、マスク。  
足元は茶色のゴム草履。

特に今日は、早出なのに寝坊したせいで、使い古したお家用メガネをかけている。

眉毛だけは、なんとか描いて家を出た。  
……それはまぁ、いつものことだけど。

厨房業務は、とにかく暑い。  
ちゃんとメイクしたところで、すぐに汗で崩れてしまう。

額の汗を肩や腕で拭いてしまい、白い制服にベージュが移る。  
それを見て、やめた。

ただ、人前に出ることもあるので、眉毛だけは描いている。

オシャレさんには、理解できないだろう。

彼女は、うちの職員の中でも、とびきりのオシャレさんだ。

ショートカットに、くしゅくしゅのパーマ。  
最近の髪色は、ピンクオレンジにハイライト。

少し前までは、ミルクティー系の色合いだったはず。

メイクも、色味はおさえているのに完璧だ。

リハビリスタッフの制服であるポロシャツも、彼女が着るとなぜかオシャレになる。  
大きめをジャージにゆるくインしていて、ウエストの細さが強調されている。

スポーツマンで肩幅広めの彼と並ぶと、本当にお似合いだ。

彼は、リハビリと介護スタッフの有志で作ったバレーボールチームの一員で、彼女はマネージャー。  
入所者さん公認のカップルでもある。

「あんた達、結婚したら披露宴はここでせないかんよ❗️」

世話焼きのおばあちゃんが、そう言っていた。

もし本当にそんなことになったら、絶対その日は休む。

なんで、こんな報われない恋を始めてしまったのか。

理由は簡単。  
優しくされたから。

――さらに少しだけ、時間を遡る。

入職して、はじめてのイベント食前日。

フロアに貼り出すお品書きが、文字だけだと味気ないと言われ、急遽イラストを貼り付けることになった。  
私一人で。

本館と別館。デイサービスのホール。グループホーム3フロア分。

印刷は白黒のみ。  
それなのに、色があった方が可愛いと言われ、色塗り作業も追加になった。

当然、残業になった。

大きな模造紙に色を塗ったイラストを切り貼りするには、栄養士室では手狭だったため、厨房前の本館ホールを借りた。

ホールの半分だけ電気をつけて作業していると、彼が来た。

「明日の?」  
「はい」

もう21時近かった。

明日も早出勤務なので、早く帰りたい。  
だけど、雑なこともしたくなかった。

誰が見てくれるかも分からないけど。

私は黙々と手を動かしていた。

「これ、テキトーに貼っていけばいい?」

一瞬、何を言われたのか分からなかった。

彼は、まだ貼り付けていないイラストとスティック糊を手に取っていた。

「これ、色塗りも手作業?」  
「はい」

それまで、彼とは話をしたこともなかった。  
だから、まさか手伝ってもらえるとは思っていなかった。

二人で黙々と作業したおかげで、6枚のお品書きは可愛く出来上がった。

「あ、ありがとうございました」

テーブルを片付けようと立ち上がりながら、お礼を言う。

「どういたしまして。明日、楽しみにしてる」

糊が乾いているのを確認してから丸めた模造紙を渡しながら、彼はそう言ってくれた。

その日を境に、通りすがりの挨拶に、少しだけ会話が混ざるようになった。

――そして、今。

試合を見に来て、と言われて、行くと答えた。  
それだけ。

まだ、何も始まっていない。

だけど、

きっと、  
何かは変わる。

とりあえず、その日は絶対に残業はしない。  
誰になんと言われても。

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