新聞は複数読め、が成立しない時代に
産経が朝日を叩いていた。W杯で「サムライブルー」に沸く最中、朝日の編集委員が「私は絶賛『高市ブルー』である」と書き出すコラムを載せ、産経のメディアウオッチがそれを「悪口を延々と続けているだけ」と要約して斬る。国旗損壊罪を「息苦しい」と報じた毎日も巻き添えで叩かれていた。
両方読んだ。産経の要約は、わりと正確だ。
朝日の高橋純子編集委員のコラムは、冒頭から「厭世観にさいなまれ、深く眠れず、脳が目詰まりを起こして」「ポテトチップスのパッケージが白黒に見える」と続く。「過去イチ高イチ雑すぎて滅!」というノリの良さもある。読み物としては面白い部類だ。だが論点——中傷動画疑惑で首相の答弁が雑、創作を疑われるレベル——が、「高市ブルー」という主観ワードのパッケージに包まれてしまっている。だから産経に「悪口じゃないか」と要約されると、形式的には反論しづらい。芸風が、批判の的を自分から差し出している。
産経も産経で、同じ紙面で「日の丸を傷つけたければ自宅で藁人形でも打て」とやっている。品位を持ち出せば、両者とも脛に傷がある。ついでに言えば、毎日の国旗損壊罪「息苦しい」報道も、産経vs朝日の陰に隠れた第三の当事者だ。これも結局、特定の立法や人物を主観のワードで括ってみせるという、同じ盛り方の問題系に属している。
一紙では真ん中が取れない
ここで思い出したのが、昔から言われてきた定石だ。新聞は複数読め。
朝日も産経も毎日も日経も、それぞれ偏っている。読売はよくわからない。各紙が偏っているのは不具合ではなく仕様で、読者が複数を束ねて初めて立体視になる。一紙のなかで賛否が拮抗することは、もう構造的に起きない。署名コラムの書き手は、その社の論調に沿った人で固められているからだ。「高市ブルー」の隣に「高市政権を評価する」を同じ熱量で載せたら、コア読者が離れる。商業的には、拮抗より純化のほうが合理的になってしまう。
皮肉なのは、その朝日のコラム枠の名前が「多事奏論」だということだ。多くの事が奏でる論、という字面とは裏腹に、いまは一方向の論しか奏でていない。看板と実態がずれている。
偏りの軸も、紙ごとに違う。朝日・毎日は社会面起点、産経は国家観の前面化、日経はそもそも市場と企業の利害から世界を切るので、同じ政治イシューでも論点の立て方そのものがズレる。読売がわかりにくいのは、最大部数ゆえに最大公約数的な保守中道に着地しがちで、産経のような芸風の尖りがないからだ。輪郭がぼやける。
ただ、その読売も1994年、現行憲法公布と同じ11月3日の朝刊1面で独自の憲法改正試案を掲げ、社説の枠を超えて自分から論を仕掛けたことがある。最大公約数に着地しがちな紙が、時おり独自に動く。この不規則さも込みで「読売はよくわからん」なら、的を射た読後感だと思う。
だから複数を重ねる。違う軸を重ねるからこそ立体になる。読者の側が、その手間を自衛策として引き受けていた。
湯船から出てこない
問題は、この自衛策がもう成立しにくいことだ。
紙を複数購読する人はほぼいない。ネットでは各紙が有料の壁の内側にいて、無料で漏れ出てくるのはX経由の断片か、今回のように社同士が殴り合う場外戦の見出しだけ。読者が能動的に複数束ねるコストは、紙の時代より上がっている。
そして、ここにアルゴリズムが乗ってくる。読む人が求めるものを見せるから、読者は束ねる必要を感じなくなる。それどころか、自分が片側しか浴びていないことに気づけない。新聞には「自分は朝日を読んでいる」という自覚があった。タイムラインには銘柄がないから、偏りが偏りとして意識に上らない。
二つの言葉を、ここでは分けておきたい。アルゴリズムが見せる情報を選り分けるのがフィルターバブル。同じ声が反響して増幅していくのがエコーチェンバー。別の現象だが、これが合わさると効果は足し算ではなく掛け算になる。選り分けられた情報のなかで、似た声だけが反響し続ける。
もう一段やっかいなのは、この二つが合わさると、反対側が実際より過激で少数に見えてくることだ。自分のタイムラインでは大多数が同意していて、たまに流れてくる反対意見は極端なものばかり。アルゴリズムはエンゲージする反対意見、つまり一番殴りやすい相手を選んで見せるからだ。健全な反対論は視界から消え、戯画化された敵だけが残る。穏当な中間が、両側から見えなくなる。
今回の産経vs朝日が、その縮図だ。本来なら「中傷動画疑惑の事実関係はどこまで詰まっているのか」という地味な検証が真ん中にあるべきなのに、表に漏れて拡散されるのは「高市ブルー」「藁人形でも打て」という両極の尖った部分だけ。エンゲージするのは罵り合いだから、そこが増幅される。地味な事実検証は誰もリツイートしない。真ん中が流通しないように、構造ができている。
「複数読め」の時代との決定的な違いは、コストの方向だ。昔は複数読むのに金と手間がかかったが、「自分は努力して束ねている」という自覚があった。いまはバブルの中にいるのがデフォルトで、無料で、快適だ。外に出るほうに金と手間と、不快さがかかる。自分と違う論を浴びるのは気持ちよくない。
気持ちいい湯船からは、わざわざ出てこない。
出てこない人を、無知だとかリテラシーがないとかで責めても意味がない。湯が気持ちいいことは、出てこない当人が一番よくわかっている。出れば寒い。わかった上で、合理的に湯にいる。だから「正しい情報はこちらですよ」と寒い脱衣所から呼びかけても、誰も手を挙げない。
むしろリテラシーが高いと自認する人ほど、抜けにくい面がある。「自分は多角的に見ている」という自負が、自分のタイムラインもまた選り分けられた一面でしかないという事実を、見えなくするからだ。湯に浸かっていないつもりの人が、一番深く浸かっている。
偏りを取りに行く
今の時代、偏りは取りに行かないとだめだ。
中立な情報源を探すのではない。中立など最初からどこにもない。偏った情報源を複数、意図的に集めて、自分のなかで束ねる。新聞の「複数読め」と同じ作法を、紙という物理的なきっかけすらない状態で、全部自前でやる。
この手間が昔より重いのは、二重の負荷がかかるからだ。有料の壁とアルゴリズムの引力に逆らうコスト。そして、自分が見たくない側を、わざわざ不快を引き受けて読みに行く精神的コスト。同意できる情報は、脳がほとんど抵抗なく通すのに、反対意見は読むだけで負荷がかかる。処理コストが物理的に違う。続けられる人がほとんどいないのは、意志が弱いからではなく、構造的に割に合わないからだ。
しかも両極を取りに行っても、それで真ん中が手に入るわけではない。産経の藁人形と朝日の高市ブルーを両方読んでも、足して二で割った中庸は出てこない。両極端を浴びたうえで、どこが事実でどこが演出かを自分で腑分けする、もう一段の作業がいる。取りに行く手間と、腑分けする手間。二段構えだ。多くの人は一段目で力尽きるか、そもそも一段目に入らない。
私は、この作業が楽しい。一次情報を突き合わせて、事実と推論を分けて、ラベルを剝がす。大半の人にとって冷水であろうこの作業が、私には湯加減がいい。だからnoteに書くものは、即物的なニュースにはならない。誰が読んでも解釈が同じ速報や訃報や試合結果は、私も読んで終わりだ。腑分けする余地がないものに、私の出番はない。
即物ニュースは、知識を一つ足してくれる。解釈が割れるニュースは、見方の解像度を一段変えてくれる。私が書きたいのは後者だけだ。同じ事実を前にしても解釈が割れる領域——今日の産経vs朝日のような、事実より作法と構造が問われる話。読者を選ぶ書き方になるのは承知している。万人に届けようとした瞬間、尖りは消えて、誰の記憶にも残らない最大公約数になる。読売が巨大ゆえに輪郭をぼやけさせるのと、同じ力学が書き手にも働く。
選ばれた読者の側には、自分で考えた感触が残るはずだ。結論を手渡されると受け取って終わるが、腑分けの過程を見せてラベルを貼らずに構造だけ差し出せば、どう評価するかの最後の一歩は読者が自分で踏むことになる。偏りを取りに行く手間が割に合わない時代に、その手間を肩代わりする書き手の居場所が、たぶんそこにある。
産経が朝日を叩き、朝日が高市を叩く。その応酬を、罵り合いとして消費するのか、メディアという形式の機能不全として腑分けするのか。湯から出るかどうかは、結局そこに行き着く。
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