なぜ彼らは証拠を残すのか〜栃木いじめ動画事件が突きつける問い〜(追記あり)
新年早々、胸が塞がるようなニュースが飛び込んできました。
栃木県の県立高校で、男子生徒が複数の生徒に取り囲まれ、校内で一方的に暴行を受ける動画がSNSで拡散されています。
打撃音。ひるむ被害者の姿。そしてそれを撮影し、共有する加害者たち。
映像の詳細な描写は避けますが、同じ年頃の子を持つ親として、そして日々人の身体と向き合う医師として、言葉を失うほどの衝撃を受けました。
報道によれば、この事件は2025年12月に校内で発生し、1月4日に第三者からの通報で県警が捜査を開始。学校側は1月7日に「いじめに該当し得る」と認め、県警は暴行事件として捜査を進めています。加害者とされる生徒は「大変申し訳ないことをした」と話しているとのことです。
一方で、ネット上では加害者とされる生徒たちの情報が拡散され、いわゆる「デジタルタトゥー」として刻み込まれる事態に発展しています。学校には県外からも含め200件以上の問い合わせが殺到しているといいます。
このニュースに接したとき、多くの人が抱くであろう素朴な、しかし深い疑問があります。
「なぜ彼らは、自分たちの犯罪行為をわざわざ撮影し、証拠として残すのか?」
今日はこの問いについて、少し深掘りして考えてみたいと思います。
「バカだから」で片付けていいのか
ネット上のコメント欄を見ると、「バカだから」「想像力が欠如している」という意見が散見されます。
確かに、未成年の脳、特に理性的判断やリスク評価を司る「前頭前野」は、25歳頃まで成熟が続くとされています。感情や衝動を司る「大脳辺縁系」の発達に対し、ブレーキ役の前頭前野の発達が追いついていないアンバランスさが、10代特有の無謀な行動を引き起こすことは医学的にもよく知られています。
「仲間内で武勇伝として見せびらかしたい」「『いいね』が欲しい承認欲求」「消せば消えるというデジタルへの甘い認識」——これらも間違いなく要因の一つでしょう。
しかし、今回のようないじめ動画、特に被害者が明確に苦痛を受けている映像を残す心理を、「若気の至り」や「未熟さ」だけで説明してしまっていいのでしょうか。
私はそこに、もっと悪質で、冷徹な計算を感じずにはいられません。
「証拠」ではなく「武器」としての動画
彼らにとって、あの動画は「自分たちの悪事の証拠」ではありませんでした。
おそらく、「被害者を支配し続けるための武器」だったのです。
「誰かに言ったら、この動画をばら撒くぞ」
もし、そう告げられていたとしたらどうでしょう。
被害を受けた生徒は、身体的な痛みだけでなく、「恥ずかしい姿が世に出るかもしれない」という恐怖によって口を封じられます。親にも、教師にも、警察にも相談できなくなる。動画が存在すること自体が、被害者を孤立させ、逃げ場をなくすための最強の鎖となるのです。
いじめの現場において、カメラを回すという行為は、単なる記録ではありません。
それは、被害者に対して「お前は我々の支配下にある」と刻印する、パワーゲームの儀式です。自分たちの愚かさを記録しているのではなく、自分たちの「強さ」と被害者の「弱さ」を可視化し、固定化するために撮影する。そう考えると、彼らがリスクを冒してまで動画を残す理由が見えてきます。
これは「リスクが見えていない」のではありません。「リスクをヘッジするための脅迫材料」として、動画を利用しようとしていた可能性が高いのです。
デジタル時代の「見えない牢獄」
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