しおりが語ること 辺野古転覆事故・第32稿
6月5日の参院予算委員会。国民民主党の伊藤孝恵議員が、一枚の紙を掲げた。
前日、私学界の代表は教育の規範を語っていた。学校の考えを押しつけるだけでは教育ではない、と。その翌日、国会で示されたのは規範ではなく物証だった。同志社国際高校が研修旅行で配ったしおりである。辺野古コースの案内が載っている。伊藤議員はそれを示しながら、こう述べた。ここにある写真や文字を見て、これが抗議船に乗るプログラムだと気づく生徒や保護者は一人もいない、と。
第28稿で、僕はある争いを書いた。あれは抗議への参加だったのか、それとも見学だったのか。学校側は見学だと性格づけ、報告書をめぐる論者は全体で見れば偏っていないと述べた。器をどう呼ぶかの攻防だった。
その器の中身を、しおりが語っている。
物証
これまで連載で扱ってきたのは、講演の記録であり、文集であり、感想文だった。いずれも事後に書かれたものだ。何が起きたかを、後から振り返った言葉である。
しおりは違う。出発前に配られた、事前の紙だ。生徒と保護者が辺野古コースを選ぶとき、手元にあった唯一の説明である。
修学旅行は、保護者の同意の上で生徒を送り出す。その同意は、配られた紙を判断材料にして成り立つ。判断の前提になる文書が実態を告げていなかったなら、同意そのものが土台を欠いていたことになる。
そこに「抗議船に乗る」とは書かれていなかった。伊藤議員の指摘が正しければ、写真からも文字からも、抗議船とは読み取れない。選んだ生徒も、送り出した保護者も、これから何が起きるかを知らされていなかったことになる。
見学か参加か、という問いは、もう一段手前に戻る。参加させられた側が、自分が何に参加するのかを知っていたか。しおりは、知らされていなかったと示している。
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