「これだけやったのだから負けるはずがない」という域に到達するために
毎年2月、私は2年生の通塾生に
「この3年生の殺気を必ず覚えておけ」
と言っています。
トップ校以外に通う生徒は、これまで「ガチ受験生」を見たことがありませんし、来年も自分の周りでそういったオーラを見ることは期待できないでしょう。特に、一橋大学や早稲田大学を受験する先輩を見るのは、中堅校や非進学校では不可能です。
共テが終わって受験校が決まると、多くの受験生は必死で勉強時間を増やし「最後の追い込み」をかけます。不安というのは質ではなくて量で解消されるものなので、受験生たちは「量」という条件を満たすために、今まさに1日10~15時間の勉強をしているわけです。
ここで「不安」というものの正体を分解すると、少なくとも二層に分けられます。
一つは結果不安(落ちたらどうなるか、周囲にどう見られるか)、もう一つは過程不安(自分は本当にやるべきことをやっているのか、手を抜いているのではないか)です。
直前期に急激に増える勉強時間が対処しているのは、前者というより後者、つまり「自分はやったと言える状態にあるか」という自問です。
この問いに対しての行動ならば、実は質の高低はそれほど大きな説得力を持っていません。「今日は8時間集中できた」という主観よりも、「今日は15時間机に向かっていた」という事実のほうが、自己検証としては強いんだと思います。
高校野球の強豪校が、朝8時から夜11時まで練習をしている理由を考えてみましょう。一般的な野球部は、甲子園出場を目標に掲げながらも「根拠のない自信が大切だ」と言って、のびのびとプレーすることを目標にします。しかし甲子園の常連校は、「こんなに練習している高校は他にない。だから負けるはずがない。」という「根拠のある自信」を手に入れるために、限界を超えるような「量」を自らに課し、過酷な努力に挑んでいるのです。
「慶應義塾高校は夏に全国制覇したじゃないか」
「エンジョイベースボールこそ正解だ」
それを讃えるのはわかりますが、倣うのはあまりに短絡的で浅薄です。
「偏差値40だった自分が『科学的勉強法』で1年で東大に合格できた」というのを信仰するのと同じです。
話を戻します。
「起きている時間全てを受験勉強に費やす」
それほどの努力であっても、必ずしも最高の質を保証しないことは、当人たちも分かっています。それでも量を積むのは、「やるべき試行をやり切った」という感覚が、不安を沈静化させると知っているからです。
つまり、量は「点数を伸ばすための手段」である以前に、「不安に飲み込まれずに試験会場に座るための条件」なのです。
この観点に立つと、直前期の「量」を一概に「非効率」「質が伴わない」と切って捨てる言説が、どこか現実からずれている理由も見えてきます。
さらに、「不安は量でしか解消できない」というのは、「量を積んだ者だけが、質について冷静に考える余裕を持てる」ということも意味します。
量が不足している状態では、
どの教材が良いか
どの勉強法が正しいか
自分は伸びているのか
といった問いに対する答えが全て他者依存に陥ってしまうので、ますます不安と絡み合い、思考を濁らせます。節操なく情報を集めるだけの検索マシーンになってしまいます。
一定量をやり切った後で初めて、「ここは無駄だった」「ここは効いた」という反省が可能になるんです。この意味で、量は思考停止ではなく、思考の前提条件とも言えるでしょう。
共通テストの結果で志望校を下げることなく、むしろ加速しようとしている受験生たちは、現在過去問を多くやっていることと思います。しかし1ヶ月あれば、赤本1冊分の過去3年や5年、または10年分は終わってしまいます。
そうやって過去問が「消費」されていく過程で、多くの受験生は次のような暗黙の前提を持っています。
過去問=本番に最も近い「正しい練習」
過去問を解く=実力測定+実力向上
過去問が残っている=まだ伸びる余地がある
過去問がなくなる=もう伸びないのではないか
このため、過去問を「力試しのイベント」として消費する受験生ほど、量のよりどころを失い、同時に精神的な加速装置も失ってしまいます。
「過去問しかやることがないのに、それを消費してしまったらどうすればいいのだろう」
これをネット検索したり指導者にアドバイスを求めたりすると、
丁寧に復習しなさい
なぜ間違えたかを考えなさい
解説を熟読しなさい
という、なんだか曖昧なのに負荷が高く、量に換算しづらい説明をされます。その結果不安は増幅します。
直前期に有効なのは、復習を反省作業ではなく、機械的作業に近づけることです。
3か月前や半年前とはフェーズが違うんです。
例えば、私は生徒に、過去問演習で間違えた原因を
語彙
構文
文脈
設問処理
のいずれか一語で必ず分類させています。こうすることで、復習=長考ではなく、「処理量」という認知に切り替わります。
これは「考えさせない指導」という意味ではなく、考えることは最優先ではないと捉えると整理しやすいかもしれません。
だから私は、受験生が量を確保する手段として、オリジナルの問題を大量に準備しています。
「そんなニセモノの二流問題をやっても無意味だwww」という意見をいただくこともありますが、それに反論するつもりはありません。
私が準備している形式演習は、「質を上げて当てる練習」ではなく「量を増やすことで判断を固定する練習」です。前提と目的が違うので、手段が変わるのも当然です。
ターゲット形式に特化した問題の最大の価値は、点数が何点取れるかではなく判断が揺れないことを確認できる点にあります。そのため、使い方としては
制限時間を設定する
途中で立ち止まることを禁止する
分からなくても処理を前に進める
といった条件が重要になります。ここでの評価基準は、正解率ではなく「止まらなかったか」「捨て問を作れたか」「いつも通りの順序で処理できたか」です。
この評価軸を明確にしないまま問題に取り組むと、結局「過去問で力試しゲーム」と同じように「正解か不正解か」という観点に回収されてしまい、初見耐性の訓練にはなりません。
まとめます。
直前期に受験生が量を求めることは間違っていません。むしろ正しい判断です。
「質が伴っていないとムダになる」という誰にでも言えるような陳腐な決まり文句は、個性を殺して一般論に逃げている空疎な助言です。この時期のガチ勢には当てはまりません。
