ジキルとハイド
大学卒業後の約20年間を描いた、実話をもとにした長編小説です。
証券会社、結婚、挫折、双極性障害(躁鬱病)、世界一周の旅、そしてロンドンで出会った英国人スパイから告げられた驚くべき事実――。
波瀾万丈だった人生を、一つひとつ振り返りながら書いています。読んでいただき、率直なご感想をいただけたらとても嬉しいです。
それは2008年(リーマンショックが起こった年)2月の、暖かく感じられるある晴れた日の午後3時、男は我孫子駅から千代田線の電車に乗り込んだ。
この冬は雪が多く、すでに三度も街が銀世界になっていた。
人間なんて勝手なもので、寒いのが苦手なこの男も近年の温暖化の影響であろう暖冬には薄気味悪さを覚えており、『冬はやっぱり寒いほうがいい』と周りに主張するようになっていた。
平日のこの位の時間はいつもこうなのか、車内はガラガラだった。
(この辺りの景色も随分と変わったもんだ)
男は心の中で呟いた。
彼が家族とこの町に越してきたのは中学2年生の頃、今から丁度30年前の事だった。
自衛官だった父親に付いて、それこそ鹿児島から北海道まで全国を転々とし、ようやく落ち着いた先が我孫子だった。
それまでの官舎住まいから初めての自分の家、そして初めての二階建てに家族4人が皆ウキウキとしていた。
千葉県我孫子市は千代田線で霞が関まで1時間、常磐線で上野まで35分の所に位置している。
古くは志賀直哉や武者小路実篤などの文豪が居を構えた、文化の香りがする土地柄である。
バブルの時期、交通の利便性を考えると意外な程大きな開発は無かったが、今から数年前に駅の近くに陣取っていた精密機械の工場が土地を明け渡すと、あっという間に高層マンションが乱立してしまった。
車窓からの眺めもすっかり変わってしまったのである。
男の名は英行、親しい友人からは“ヒデ”と呼ばれてる。
今日は議員秘書のSさんに会うために国会議事堂前に向かっている。
(Sさんにどう云う風に話をしようか)
電車は松戸を過ぎて江戸川を渡り東京に入った。
Sさんは秘書歴40年近い大ベテラン、10年程前に仕事の関係で付き合いが始まった。
ゴルフや飲みでかなり仲良くしてもらい、色々と為になるアドバイスも頂いていた。
しかし、4年近く前、ヒデがかなりひどい躁状態の時に事件は起こった。
鮨屋のカウンター席で激昂してしまい、この大先輩を大声で怒鳴りつけてしまったのだ。
板前も客も一瞬凍りついた。そして、Sさんとはそれっきりになった。
鬱は苦しい、確かに死にたくなる。しかし、少なくとも人を傷つけたり嫌な思いをさせる事はそれ程多くないだろう。
躁は苦しいと云うより危ない。個人差があるだろうが、ヒデの様に重度のケースはかなりのものだ。
歩いていて誰か少しでも体に触れようものなら躊躇なく殴り蹴飛ばす、際限なく酒を飲む、後先考えずに有り金は全て使ってしまう、などなど手に負えないモンスターに変身してしまうのだ。
そう、ジキルとハイドのようなものだ・・・。
